応仁の乱の元凶?! 足利義政は無能だったのか?
発売中!『歴史人』8月号の特集は「真説・応仁の乱」
「応仁の乱」は、将軍の継承問題に端を発したといわれている。さらに、その過中にいた8代将軍足利義政の優柔不断な性格がますます政情を混乱させ、全国を巻き込む戦渦を生み出していったという。
しかし、義政は本当に優柔不断であったのか。「歴史人」8月号では、その生い立ちから死に至るまで、生涯を追うことで、歴史研究家の渡邊大門氏が真相を探っている。その中から一部を紹介する。
「永享8年(1436)、足利義政は義教の次男として誕生した。初名は、義成(以下、義政で統一)。母は、日野重子である。普通に考えると、次男坊である義政は将軍になる芽はなかった。しかし、嘉吉元年(1441)に父・義教が赤松満祐により殺害され(嘉吉の乱)、その嫡男・義勝があとを継いだものの、嘉吉3年に病により夭折した。
こうして将軍の座は義政のもとに転がり込んできたが、ことは単純ではなかった。嘉吉3年の時点で、義政はまだ8歳であった」
8歳の時に、将軍を継承したが、実際に宣下を受けたのは14歳であった。まだ若く政治の主導権は重臣たちが握っていた。
「もはや幕府政治は義政の手に負えない状況になっていた。幕府の主導権は管領家の細川勝元、畠山持国、そして侍所の所司の家柄の山名宗全ら宿老層が握ることになったのである」
義政の性格はどうだったのだろうか。
「義政は父・義教に似ていなかったのか、おとなしい性格だったようだ。このような未曽有の事態に対して、義政が取った行動は、現状からの逃避である。義政は物見遊山や酒宴を催し、猿楽に興じるありさまだった。政治は先に紹介した側近の面々に委ねる始末で、積極的に事態の打開に取り組もうとはしなかった。それどころか、飢饉が深刻化した寛正2年には、梅津に山荘の建築を開始し、後花園天皇から詩によって諫められることもあった。
こうして義政の失政が続くなか、一つの大きな判断ミスを犯す。義政と富子の間には、後継者たる男子に恵まれなかった。そこで、義政は出家していた弟の義視を還俗させ、後継候補にしたのであるが、ここで予期せぬことが起こった。翌年、富子が男子を出産したのである。これが、のちの義尚であるが、皮肉なことに実子の誕生は新たな不幸をもたらした。富子と義視との対立が深刻化したのである」
優柔不断はいつの世も、争いを生んでしまうのだろうか。
〈「歴史人」2017年8月号「将軍・足利義政は無能だったのか?」より〉