【拡大解釈という無限抱擁】なぜ、日本人の多くは自分で判断することを嫌うのか《岩田健太郎教授・感染症から命を守る講義㉞》
命を守る講義㉞「新型コロナウイルスの真実」
なぜ、日本の組織では、正しい判断は難しいのか。
なぜ、専門家にとって課題との戦いに勝たねばならないのか。
この問いを身をもって示してたのが、本年2月、ダイヤモンド・プリンセスに乗船し、現場の組織的問題を感染症専門医の立場から分析した岩田健太郎神戸大学教授である。氏の著作『新型コロナウイルスの真実』から、命を守るために組織は何をやるべきかについて批判的に議論していただくこととなった。リアルタイムで繰り広げられた日本の組織論的《失敗の本質》はどこに散見されたのか。敗戦から75年経った現在まで連なる教訓となるべきお話しである。
■ただの作文が金科玉条になる
ここまでにも何度か「日本政府の感染症対策は、概ね正しい」という話をしました。この「概ね正しい」という表現は、「正しくないところが少しはある」という意味でもあります。ここからお話しするのが、その「正しくない」ことの一つです。
厚労省が発表した新型コロナウイルスの診断基準は、当初は「武漢から帰ってきて、37度5分以上の熱が4日間続いて」みたいなものでしたが、その後もころころと変わっています。
じつはあの基準には科学的根拠なんかなくて、どれも厚労省が作ったでっち上げなんです。はっきり言えば、役人が作った作文にすぎません。科学的なステートメントではなくて、「このへんで線を引きましょう、という基準をつくらないとみんなが困るから、ここで線を引きますよ」という政治的なステートメントにすぎないのです。そこをまず理解しないといけない。
だから、あの基準には「この線から外れててもコロナの人はやっぱりいますよ」という理解をしないといけないんです。武漢に行っていない、大阪のライブハウスにも行ってない、クルーズ船にも乗ってない、熱は37度4分しかない。でもやっぱりコロナだ、ということがあるという理解が必要で、そういう人でも、状況に応じてやっぱりPCRをしましょう、という判断を医療機関はしないといけない。
ところが、これが判断できないんですね。
一つは厚労省側の問題。自分がつくった政治的な基準にすぎないものを、なぜかいつの間にか絶対的な基準にしてしまう癖が彼らにはあります。ダイヤモンド・プリンセスで見せたのと同じ、自分の幻想と事実をごっちゃにしがちな、自分の物語に沿った以外の例外を認めない官僚が起こしがちなミスです。
もう一つは保健所側の問題。日本の保健所には全てではないにせよ、厚労省がファックスで送ってきた通知をそのまま金科玉条のものとして受け取って、それ以外の例外は認めないところが結構あるんです。
本来であれば、あの基準は厚労省がでっち上げた作文にすぎなくて、別にコロナの科学的な基準ではない、とりあえずの目安です。だから、そこから外れる患者さんだって当然いる。
いま新型コロナウイルスの患者さんが全然見つかってない自治体は、一人目の患者さんをちゃんと見つけたいと思っているはずです。一人でも、いるのかいないのかという分水嶺はすごい大きいですから。
で、現実に患者さんがいたとして、その人が体温計で測ったらたまたま37度4分しかなかったけど、クラスターが発生したライブハウスには行ってました。この人は基準を満たさないから検査しなくていいよね、というのは愚かな考え方です。ちゃんと見つけないといけない状況ならPCRすべきだし、仮にPCRが陰性でも、PCRは間違う可能性がある。だから、やっぱり14日間自宅待機してもらうべきなのです。これが正しい判断です。
つまり「正しく判断する」には、ただアルゴリズムとして厚労省の基準に従いましょうということではダメで、自分で頭を使って考えなきゃいけないわけです。
今の例ならば「ライブハウスから帰ってきて、熱が37度4分ってことは、線は超えてないけど、ほぼ線だよね」と考える。ここは、それぞれの保健所、病院が「厚労省の基準そのままではダメなところだぞ」と心得るべき、判断のしどころです。
でも、それができないんですよ。なぜなら日本人の多くは自分で判断することを嫌うから。
責任を取りたくないし、そもそも自分の頭で考えるのが嫌いだから、誰かに判断してほしい。だから厚労省の文書に従うわけですね。それで何かあったときには「私の責任じゃない、あれは厚労省が言ったことに従っただけです」と言い逃れしたいんです。
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