明石道峯構付城と羽柴秀吉
外川淳の「城の搦め手」第23回
今回は、羽柴秀吉による兵糧攻めの舞台となった三木城について触れてみたい。
三木城は、秀吉によって攻略されたのち、前野氏や中川氏などが城主を務め、元和の一国一城令で廃城となった。三木城は、戦後の都市開発によって市街地となり、櫓台とされる土の盛り上がりが最大の見所となっている。そのため、壮絶な攻防戦が行われた歴史的現場としての盛り上がりには欠けるのかもしれない。
三木城本丸。別所長治石像の背後の土の盛り上がりが櫓台跡。
秀吉は、三木城攻めに際し、付城と称される砦を築き、包囲の拠点とした。明石道峯構付城(あかしみちみねかまえつけしろ)は、その代表例であり、発掘調査が行われたのち、史跡公園として整備されている。詳細は三木市ホームページ(明石道峯構付城)を参照のこと。
なお、三木市役所の観光関連のサイトでは、三木城攻防戦関係の史跡がきちんと紹介されており、自治体作成のなかでは、やる気の感じられる構成となっている。
明石道峯構付城の土塁を撮影したが、ただの公園にしか見えないため、土塁部分を着色してみた。
三木城攻防戦と関連する史跡としては、本体の三木城よりも、包囲のために築かれた付城のほうが戦国時代の様子をしのばせる遺構が今日に伝えられている。
秀吉は、三木城をはじめ、難攻不落と思われた敵城に対し、付城を築くことによって攻略するという方法を確立させていく。最終的には、小田原城攻めの石垣山城のような巨大要塞を付城として築くのだが、その発展途上の段階として、明石道峯構付城のような小規模な付城も数多く築いたのだ。
城を包囲するための付城というと、急造された小さな砦程度と思われかちだが、短期間であっても、大規模な土木作業が加えられた例も多く、付城は、城巡りの一つのテーマとなりえるアイテムともいえよう。