とにかく面白かった、又吉直樹芥川賞受賞の現場。そして、いとうせいこう候補作の場合
芸能人と文学賞②
好き勝手言えるのが文学賞の良さ
さて、又吉さんが真面目で真摯な人だというのは、数多く発表されているそのインタビューやエッセイからも、十分伝わってくるところですが、その受賞が、文学の世界にどう影響を及ぼすのかは、将来の話なので措いておくとして、すでに現実に、次世代に向けた重要な効果をもたらしたことは明らかです。
それは、誰かが小説を出したときに「おーっ、芥川賞とっちゃうのか」とまわりからイジられる、もしくは自分でネタにする、という文化を継承させたこと。……って何だ、そんなことかよ、と思われるのを承知で書いています。社会的な制度である文学賞にとって、これは極めて大事なことだからです。
小説を書いた、すなわち、文学賞をねらっているのだ……という、けっこうおなじみ感のある条件反射的な発想があります。(書籍では触れていますが、)これを日本人が会得したのは戦後以降のことでした。以来ずいぶん時代も変わりましたが、いまでもこの発想から逃れない人は(おそらく)数多くいて、私も完全にその固定観念から逃れられているか、自信はありません。
しかし、世に出た小説が、文学賞の候補になったり受賞したりする確率は、はっきりいって微々たるものです。ネタはあくまでネタでしかなく、大して現実味はありません。
そこに、文学とは別の仕事をしている有名な人が、ほんとうに文学賞をとってしまった。……となれば、ネタは俄然、現実とリンクします。「小野正嗣(一回前の受賞者です)が芥川賞とったんだって!」と友達にしゃべって変人扱いされた人が、「又吉が芥川賞だってさ!」と言うだけでクラスの人気者に。……なったかどうか確証はありませんけど、少なくとも他人と会話が通じてしまう。ふつうに考えればかなり異様な話です。この状況を異様でなくするのは、容易なパワーでは足りません。
こういった賑わいについて、又吉さん自身は、西加奈子さんとの対談で、こんなふうに言いました。
又吉 石原慎太郎さんの『太陽の季節』や庄司薫さんの『赤頭巾ちゃん気をつけて』、村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』といった作品の鮮烈さや、綿矢りささんの芥川賞史上最年少受賞など、何かしら事件性がある時に、話題になるじゃないですか。(引用者中略)芸人の僕が書いた『火花』は質は置いといたとしても、色々と取り上げていただいたことによって、ある意味、そういう作品になったのかもしれません。(『オール讀物』一六年一月号 西加奈子、又吉直樹「読書はもっと楽しくなる」)
ほんと謙虚ですよね、という感じですが、何をおっしゃいますか『火花』のレベルは、他とはまるで格が違います。
石原さんも庄司さんも村上さんも綿矢さんも、現役テレビタレントの、社会への浸透度にはとうていかないません。作品が発表されてから受賞が決まるまで、決まったとき、決まったあと……その全場面で、文学賞に対する世間の反応というものはこんなにも多彩で、力強く、楽しいものであったか、と広く人々に伝わったことは疑いがありません。
果たして文学賞の楽しさとは何でしょうか。
その最大の要素は「当事者でない人たちが、賞の選考や結果などをもとに、小説の感想からそうでない下世話な話まで、好き勝手にものを言う」ことです。自分ひとりでは思いもつかない考え、心理、あるいは社会認識など、幅広い人びとの価値観が披瀝され、交差し、共鳴したり反発したりする。こういった発言を聞いたり読んだりすることが、最も満足感の得られる文学賞の楽しみ方だと、私はいつも実感しています。芸能人が関わると文学賞が面白くなるのは、通例とは比較にならないくらい広く一般から挙がる大量で多彩な声を聞くことができるからです。
そのなかでも芥川賞は、平素から注目されているという稀有な性質があります。これを芸能人が受賞したときの衝撃は、純粋に又吉さんだけが見せた新たな光景で、文学賞界におけるその価値は、途轍もなく大きいものでした。〈2017年7月刊行『芸能人と文学賞』より構成〉