【最終回】忘れられない「美女ジャケ」サイドストーリー【美女ジャケ】
【第17回】美女ジャケはかく語りき 1950年代のアメリカを象徴するヴィーナスたち
「美女ジャケ」とは演奏者や歌っている歌手とはまったく無関係な美人モデルをジャケットにしたレコードのこと。1950年代のアメリカでは良質な美女ジャケに溢れており、ギリギリセーフなエロ表現で“ジャケ買い”ユーザーを魅了していたという。このたび『Venus on Vinyl 美女ジャケの誘惑』を上梓したデザイナー・長澤均が、魅惑の美女ジャケについて独自の考察を語る。
■3800円ルールを破っても手に入れたかった1枚
美女ジャケというレコード文化の一ジャンル? について語ってきた本連載も17回目。思えば昨年の夏の盛りに連載を開始して早一年。よくもったと思うが、今回が最終回です。
この連載では、美女ジャケをエロ目線だったり面白おかしく語りながら、1950年代のアメリカ文化、とくにサバービア(郊外)の生活者の根底にあったモラルやディシプリンなどをあぶり出して、多少は文化批評めいたものになることも目論んできた。
レコード・オタク(ヴァイナル・ジャンキーと言うほうがカッコイイね)ではない人たちにも読んでもらいたかったし、拙著『Venus on Vinyl 美女ジャケの誘惑』の書き足しになってもしょうがないと思ったからだ。
好き勝手に書いてきたようにみえるが、読者に媚びた面もなくはない。過去16回、たとえば「ロマンティック」なものをテーマにしたことはない。エロは、面白おかしい話に仕立て上げられるが、ロマンティックを面白く語るのは難しい。
だから最終回は、ロマンティックな題材も入れながら、筆者の思い入れや逸話をあまり脈絡なく書かせていただきたい。編集担当者にも事前に伝えたので、まあ、大丈夫でしょう。なにしろこれで終わりなのだから。
どんなジャンルにせよ、コレクターというのは、自分が収集するジャンルでは世界一になりたいと思ったりするものだ。ミッキーマウスもの数万点を集めるとか、Amazonの段ボール箱を全種集めるとか。
筆者の場合、コレクションするジャンルが多いし、お金もないしで、どの収集物に関しても「一番のコレクター」を目指したことはない。熱中しているときに一番欲しいものに目標を定め、それが手に入ったら、そのコレクションから別のコレクションへと移る。鉱物の収集に飽きたらクラシック・カメラの収集へ、とか。
そんな感じで美女ジャケ収集にハマり始めたときは、なんでも買い漁ったが、レコード以外のものも集めていたからお金が回らない。コレクター気質の人はわかると思うが、コレクションの初期は、ともかく量が欲しくて買い漁るものだ。
それが一段落して少し冷静になる。モノだけは増えて部屋を圧迫する……コレいらんよなぁと思えるものもチラホラ出てくる……。
海外の美女ジャケ本などに掲載されたものから、あぁ、これだけはどうしても入手したい、と目標を定めるようになる。これを入手したら、もうこのコレクションから足を洗う、とね。
そんな最終目標のレコードの1枚がハンス・ソマーの「DREAMY HANS」だった。蕩けるような柔らかな表情の金髪美女が最高に思えた。眼差しも唇も言うことがない。世界で一番美しくも思えたのだ、その頃は。
下北沢のマニアックなレコ屋でこれに出会った。4000円。当時、1枚の美女ジャケ・レコードに出費する上限を3800円と決めていた。そういう枠組みを決めないとコレクター癖の人間は、生活に破綻をきたすのだ。
ジャズのレコードは際限なく高いものがあるし、ヤフオクでも美女ジャケには、けっこうな値段が付けられている。でも1990年代後半くらいは、レコ屋で3800円以内で上等なレアものが買えたのだ。
ムード・ミュージック系なら渋谷の〈レコファン〉あたりだと370円から、そう悪くないものを入手できた時代だ。その〈レコファン〉も2006年に閉店して〈渋谷BEAM店〉に統合となったが、今年の10月にはそちらも閉店するそうだ。時代は変わる。
いまだに「DREAMY HANS」は、所有するなかで最高の1枚なのだが、人に見せると反応はそう芳しいわけでもない。美女ジャケ本の表紙写真の候補にもしたのだが、「ちょっと怖い」という反応も。なにが? とびっくりしたのだが、ピアノ写真が美女の唇あたりに透けて被さっているところが不気味にも見えるらしい。なるほど、サルバドール・ダリのトロンプルイユ絵画と通ずるところがあるかも。
視覚とは不思議なもので、初見で筆者のように「この美女最高!」と入力した人間には、それしか見えない。ところがそういう風に情報が入力されない人には、「このピアノ写真がうるさい」とか、別の情報が同時入力されるのだ。
だから美女ジャケとは恋愛とそっくりなのだ。それを好んだ人間には、当人にとって良いと思うものしか見えない。でも恋さない人には、別のものも見えてしまうということ。病膏肓に入るとはこういうことを言うのだろう。