【野良猫】ねこさんの幸せってなんだろう——野良猫・家猫・保護猫《異種ワンテーマ格闘コラム:吉田潮vsマンガ:地獄カレー》
【連載マンガvsコラム】期待しないでいいですか?Vol.8
◼︎妹・吉田潮は【野良猫】をどうコラムに書いたのか⁉️
今から40年くらい前。私が子供の頃は町に野良犬がいた。学校に入ってきて校庭を走り回ったり、交尾したり、というのが当たり前の風景だった。地域にもよるのかもしれないが、少なくとも80年代前半の千葉県では野良犬があちこちにいた。今はほぼ見かけない。タイやベトナムへ行くと、野良犬が当然のように生息していて、ちょっと懐かしいなと思う。
一方、野良猫は2020年の今でも健在だ。寺の境内や繁華街の路地裏……私の住んでいる新宿区では野良猫がたくましく生き延びている。
生まれて初めて飼った猫も、元野良猫だった。小学校6年生のとき、近所の公園でみぃみぃ鳴いていたのを拾った。親猫と思わしき猫はいたけれど、あまりの可愛らしさに心を射抜かれてしまった。当時、我が家には10年選手のセキセイインコが2羽いたので、猫を飼える状況ではない。学校内で飼ってくれる人を探したが、見つからず。私が押し切って、飼うことになった。
セキセイインコ(黄色いキーちゃんと青色のアオちゃん)は、我が家にて長らく平和な暮らしを送っていたのだが、突然の天敵の襲来に、想像を超えるストレスを強いられた。キーちゃんはストレス性の便秘で他界し、アオちゃんは一瞬の隙で窓から飛び出し、消息不明となった。10年近く家の中で暮らしていたので、外界では長く生きられなかったと思う。
インコとしては長寿だったとは思うが、野良猫を飼い始めた私がすべて悪い。本当にごめん。インコをいたく可愛がっていた姉は怒り狂い、猫のヒゲをハサミで切った。たぶん本人は忘れているだろうけれど、私はあのときの戦慄を忘れられない。
白黒のハチワレのオス猫は、その愛くるしさから我が家のアイドルとして君臨することになる。不思議なことに、家族全員が違う名前で呼んでいた。私は「ハナ」、姉は「トノ」、母は「猫ちゃん」、父は「ニャンコ」。彼は非常に柔和で温厚な性格だったが、去勢手術後はさらに穏やかになり、「野良」の称号をあっという間に捨てた。猫に敵意を抱いていた姉も、動物に興味をもたなかった父も、今じゃすっかり猫好きだ。一家全員を猫好きにさせたのは、ひとえに彼の愛くるしさがあったからこそ。
その後、15年生きて、1999年の2月25日に亡くなった。父と母と私で最期を看取った。最期のほうは皮膚がんが進行して、フェイスラインが崩れて異形の相となっていた。病変部位から血を噴き出すなど凄惨な状態ではあった(面倒をみていたのは全部母である)。それでも家族に見守られ、猫生を終えたことは幸せだったと思う。看取ったときも、埋葬するときも、父は「ニャンコ~!」と泣き叫んで嗚咽していた。父が泣く姿を見たのは、それが最初で最後だ。
次に、私のもとにやってきたのも元野良猫だった。そして、今飼っているのは元野良猫で保護猫だった2匹である。昔と違って今は「保護猫」というシステムがしっかり根付き、「人間と猫の共生」を軸にした活動が盛んだ。ボランティアさんや保護猫カフェの人の努力と尽力で、安全で幸せな猫生を送る猫たちも増えた。
いや、しかし、安全=幸せ、かどうかはわからない。野良猫とか保護猫だと定めているのはあくまで人間であって、猫らが主語ではない。人間に飼われず、自由気ままに太く短く生きる野良猫が、猫の本懐であり、自然の姿だとしたら、人間はものすごく勝手なことをしているとは思う。思うけれども、狭い日本で、ともに暮らすためには保護猫というシステムは必須だ。弱きものを痛めつける悪しき輩から命を守るためにも、保護猫活動は今の世に必要なのだ。
そもそも、キャツらには野良猫とか飼い猫という概念はない。路地裏だろうと畑だろうと狭いマンションの一室であろうと、自由気ままに生きている(ように見える)。だから猫の気持ちなんて一生わからない、と思うようにしている。こちとら通じ合ったつもりでいるけれど、おそらくそれは人間の驕りなんだ・¥;lpppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppp
この原稿を書いている最中でも、キャツらは自由に振る舞う。上記は猫がキーボードの上にのって書いた原稿だ。餌を与え、時に遊び、眠りを妨げず、トイレを清潔にし、ブラッシングと爪切りでケアし、暑さと寒さから守ってやる。人間は猫の下僕であると自覚しなければいけない。
野良猫で思い出すのが、一軒のちゃんぽん屋である。Nという店は、猫好きの間では有名だった。一度だけ行ったことがあるのだが、清潔とは言い難い、なかなかに味のある店だった。
狭い店内には、おそらく血のつながりがあると思われる同じ柄の猫一家がいた。安いアクリル毛布のようなフワフワしたベージュの毛。カウンターの上にも、棚の上にも、そして客の足元にも猫がいる。客のちゃんぽんが到着すると、じっと見つめている。ナルト狙いか。無言の圧力に屈した男性客が、ちょいとちぎってあげると、むしゃむしゃと食べていた。
猫毛が舞う店内にはなんとなく猫の尿臭も漂う。猫好きとしてはそんなに気にしない、と言いたいところだが、それにしても有り余る「猫屋敷」感。猫一家があまりに堂々と暮らしているので、店の人に聞いてみた。
「みんな親子とかきょうだいなんですか?」。
そこで予想外の答えが返ってきた。
「うちの猫じゃないから。野良だから」
耳を疑った。え? こんなに堂々と暮らしている感があるのに?! 猫の存在を認めているにもかかわらず、「野良猫だ」と言う。飲食店で飼っているとは決して言わない「責任回避の防衛策」ともとれるけれど、野良猫が勝手に入ってきてくつろいでいるだけなのだという主張はとても斬新だった。
神経質に追い払うでもなく、都合よく餌付けするでもなく、そして私のような下僕でもない。ただ野良猫としての存在を黙認するだけ。なんかある意味で達観してるなぁと思った記憶がある。もうだいぶ前に閉店してしまったけれど、「猫との共生」にはいろいろなスタイルがあるのだと知った。
猫ネタだとつい原稿は長くなり、話も尽きないのだが、野良猫であろうと家猫であろうと、猫の主語を極力奪わないように生きていこうと思っている。
(連載コラム&漫画「期待しないでいいですか」? 次回は「ねこ」続きます来月中頃)
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