名古屋の浅草「大須観音」の隠された歴史とは?
名古屋地名の由来を歩く【知られざる寺院の魅力①】
大須観音の隠された歴史
さて、この浅草寺に匹敵する「大須観音」にはどんな歴史が隠されているのか。
真福寺はもともと、尾張国長岡庄(ながおかのしょう)大須郷(現岐阜県羽島市大須)にあった寺である。「大須」というのはその当時あった場所の地名である。
元亨4年(1324)、後醍醐(ごだいご)天皇は長岡庄に北野天満宮を造営し、その別当職として能信(のうしん)上人を補し、上人がこの「北野山真福寺宝生院」を開山したのが始まりだという。
この寺が名古屋に移転したのは、家康の命によるものだった。家康が清洲から名古屋に町ごと移転するいわゆる「清洲越し」を敢行したのは慶長15年から18年(1610〜13)のことだが、それと同じ時期(慶長17年)に、この大須観音は移転している。
家康が移転させたのには大きく三つの理由があった。一つは、この大須観音を中心に寺町をつくろうと考えたことである。二つ目は清洲にはこのレベルの寺院が存在していなかったことが考えられる。
最後の理由は、この寺にあった貴重な蔵書などを水害から守ろうとしたことである。真福寺には今でも貴重な蔵書が大須文庫として保存されている。国宝3点のほか、1万5000点もの文化財が文庫として保存されている。中でも国宝の『古事記』は「真福寺本古事記」として知られ、同書の現存する最古の写本である。
長岡庄の大須地区は、木曽川・揖斐川・長良(ながら)川が合流する輪中地帯にあって、いつ洪水に流されるかわからないという地域であった。家康はその地域から真福寺を移転させることによって、これらの文化財を守ろうと考えたのである。この家康の判断は見事であったといえるだろう。
〈周辺ガイド〉
白川公園:昭和42年(1967)に開園した、都市公園である。広さ8・93ヘクタールの公園には、大きな広場を中心に昭和37年(1962)に開館した天文館(のちの名古屋市科学館)と昭和63年(1988)に開館した名古屋市美術館がある。都市中心部にある緑豊かな森にはジョギングや犬の散歩などたくさんの人が集まってくる。美術館は名古屋出身の建築家黒川紀章氏の代表作で、そのデザインはこの地方の歴史建築の意匠が取り入れられているという。
〈『名古屋地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)より構成〉