関ヶ原合戦こぼれ話①
季節と時節でつづる戦国おりおり第441回
10月はセキガハラの季節。そう、今から420年前の慶長5年9月15日(現在の暦で1600年10月21日)、美濃・関ヶ原で徳川家康の東軍と石田三成の西軍が激突したのです。ということで、その前後にまつわる話を何回かに分けてしていこうと思います。
まずは、決戦に先立つこと20日前、8月24日(現在の暦で1600年10月1日)の出来事。この日、家康の子・秀忠の率いる中仙道の西上軍が下野宇都宮を発して信濃に向かいました。
会津の上杉景勝攻めの白河口における大将を務める予定だった秀忠は、上杉への押さえに任ぜられた兄の結城秀康に後事を託してこの日30,000ほどの軍勢を率いて宇都宮を発ちました。
その目的は、「(信濃)小県(ちいさがた)へ相働き」「信州真田表仕置のため」(秀忠書状)と、あくまでも信濃における反徳川勢力、小県郡の上田城の真田昌幸・幸村父子などの掃討にありました。
ところが同じ慶長5年(1600)8月24日(旧暦)、美濃では豊臣恩顧の福島正則らが専行して前日に攻め落とした岐阜城からさらに歩を進めて赤坂にまで進出し、伊勢では徳川方の安濃津城が包囲されるという状況に至っており、東海地方における主導権争いが一気に新しい展開に進む様相を見せています。
これを見た家康は、従来の内線の拡大方針をあきらめて主力決戦に臨まざるを得なくなりました。
「万事を捨て上洛」(『大三川志』)せよ、と秀忠に命令を発した家康ですが、肝心の秀忠は真田の上田城に足をとられていた上、使者も折からの大雨による川の増水で到着が遅れ、秀忠は関ヶ原決戦に間に合わない結果となりました。
(関ヶ原合戦こぼれ話②につづく)