関ヶ原合戦こぼれ話②
季節と時節でつづる戦国おりおり第442回
10月はセキガハラの季節。そう、今から420年前の慶長5年9月15日(現在の暦で1600年10月21日)、美濃・関ヶ原で徳川家康の東軍と石田三成の西軍が激突したのです。ということで、その前後にまつわる話を何回かに分けてしていこうと思います。
続いて、関ヶ原決戦の19日前。慶長5年8月25日(現在の暦で1600年10月2日の出来事です。この日、西軍総大将・毛利輝元のいとこで元養嗣子でもある毛利秀元が伊勢安濃津城を開城させました。
関ヶ原合戦にともなう伊勢方面での徳川家康方・石田三成方の戦いは、家康方の富田信高が守る安濃津城を三成方の毛利秀元らが攻めるという形になったのですが、その前に伏見城を攻め落として意気騰がる秀元らの軍勢30000がわずか1700人しか守備兵のいない城城を包囲したのですから、最初から相手になる筈もありません。
信高は、それでも万に一つの可能性を求めて城外に突撃をかけます。
敵に囲まれて城に戻れない信高が討ち死にを決意したとき、お歯黒をつけ化粧した武者が城から討って出て毛利家中の勇士・中川清左衛門ら5、6人を斃して信高の危機を救いました。
これがなんと信高の妻(宇喜多直家の姪)で、『逸史』に「美にして武」と讃えられる事となった麗しき女武者の働きによりメンツの立った信高は、この日城を明け渡して高野山に向かいます。
しかし、その後関ヶ原で家康が勝ったために信高はのち伊予宇和島12万石の大名となったのでした。
皮肉なのは、この信高の妻が宇喜多詮家という男と姉弟だったこと。詮家は宇喜多家中の対立に首を突っ込み、当事者よりも過激な行動をとるほど激越で感情の制御ができない人物で、とうとう主君の秀家(直家の子)の制止も聞かず大坂の屋敷に仲間と籠城した結果、家康の厄介になるという経歴を持っています。関ヶ原の戦いでは当然のように家康に付いて秀家とは敵味方に分かれ、のち大名になり坂崎直盛と改名するのですが、この男(そして信高妻)の甥の左門が坂崎家で罪を犯して出奔し信高妻のところに転がり込んだのを執念深く8年もかけて家康・秀忠に訴え、とうとう富田家を改易に追い込んでしまうのです。
そんな狂的な性情を持つ直盛も、元和2年(1616)世に「千姫事件」と呼ばれる事件を起こしてまた屋敷に籠城しようとしたため、幕府を恐れる家臣たちによって殺されてしまいます。(関ヶ原合戦こぼれ話③につづく)