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あやふやな「桶狭間の戦い」。実際に当地を歩いて正解を示す!

名古屋地名の由来を歩く

桶狭間の戦いはいかに行われたか

 さて、この地で行われた桶狭間の戦いは、信長が今川義元を討ち、その結果尾張一帯に勢力を伸ばすことになったことで歴史上有名な戦いである。

 これまで長く、信長はわずかな軍勢で奇襲をかけ、義元の首を討ち取ったという説が支配的だったが、近年歴史家の中でも多くの議論を呼び、新しい見方も展開されている。

 様々な本が出ているが、主張はばらばらである。そんなときはやはり基本に返ることである。そこで記述がかなり正確だといわれる『信長公記(しんちょうこうき)』をたどってみよう。

 それをまとめてみると、次のようになる。

 永禄3年(1560)5月17日、今川義元は沓掛(くつかけ)に陣を構えた。
 その情報を得た信長は、清洲城での家老衆との談話で、作戦については一切話もせず、家老たちを帰らせた。家老たちはあきれて、「運の尽きるときには知恵の鏡も曇るというが、今がまさにそのときなのだ」と信長を嘲笑したという。

 よく早朝、予想通り、「すでに鷲津山(わしづやま)・丸根山の両砦は今川方の攻撃を受けている」という報告を受けた信長は「敦盛(あつもり)」の舞を踊った。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」
 と歌い舞って、「法螺貝(ほらがい)を吹け、武具をよこせ」と言い、鎧をつけ、立ったまま食事をとり、鎧を着て出陣した。

 このとき従ったのは数名の小姓たちをはじめ、雑兵200人ほどだった。すでに鷲津・丸根の砦は落ちたらしく煙が上がっていた。信長勢は善ぜんしょうじ照寺の砦に陣容を構えて、戦況を見極めた。

 今川義元は4万5千の兵を率いて桶狭間山で休息していた。義元は「鷲津・丸根を攻め落とし、満足これに過ぎるものはない」と言って、謡うたいを三番うたったそうだ。

 戦況を見ていた信長は中島へ移動しようとしたところ、「中島への道は両側が深田で、足を踏み込めば動きがとれなくなります」と言って家老衆は反対した。

 しかし、信長はこう言った。
「皆、よく聞けよ。今川の兵は夜通し行軍し、大高へ兵糧を運び、鷲津・丸根に手を焼き、辛労している者どもだ。こっちは新手の兵である。しかも、『少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は天にある』ということを知らぬか。敵が掛かってきたら引け、敵が退いたら追うのだ。何としても敵を練り倒し、追い崩す。たやすいことだ。敵の武器など分捕るな。捨てておけ。合戦に勝ちさえすれば、この場に参加した者は家の名誉、末代の高名であるぞ。ひたすら励め」

 山ぎわまで軍勢を寄せたとき、激しいにわか雨が石や氷をなげうつように降り出した。北西を向いて布陣した敵には、雨は顔に降りつけた。味方には後方から降りかかった。

 空が晴れたのを見て、信長は槍をおっ取り、大音声を上げて「それ、掛かれ、掛かれ」と叫んだ。黒煙を立てて打ち掛かるのを見て、敵は水を撒くように後ろへどっと崩れた。弓・槍・鉄砲・幟のぼり・差し物、算を乱すとはこのことか。義元の朱塗りの輿こしさえ打ち捨てて、崩れ逃げた。

「義元の旗本はあれだ」という声に従って攻めかかる。初めは三〇〇騎ほどが義元を囲んでいたが、次第に人数が減って、ついに五〇騎ほどになっていた。

 最後は毛利良勝が義元の首を取った――。
 ざっと、これが『信長公記』に記された経緯である。最初に述べたように、『信長公記』は歴史的事実に関してはかなり正確だという評価があり、桶狭間の戦いに関するどの解説よりもわかりやすく、説得力がある。読者の皆さんにはぜひ、地図と照合しながらお読みいただきたい。

 さて、ここで「桶狭間」の地名について述べることにする。『信長公記』の続きにこう書かれている。

  今川勢は運の尽きた証拠だろうか。桶狭間という所は狭く入り組んで、深田に足をとられ、草木が高く・低く茂り、この上もない難所であった。深い泥田へ逃げ込んだ敵は、そこを抜け出せずに這いずりまわるのを、若武者どもが追いかけ追い着き、二つ・三つと手に手に首を取り持って、信長の前へ持参した。「首は清洲で検分する」と信長は言い、義元の首だけはここで見て、満足この上もなかった。

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谷川 彰英

たにかわ あきひで

筑波大名誉教授

1945年長野県生まれ。ノンフィクション作家。東京教育大学(現・筑波大学)、同大学院博士課程修了。柳田国男研究で博士(教育学)の学位を取得。筑波大学教授、理事・副学長を歴任するも、退職と同時にノンフィクション作家に転身し、第二の人生を歩む。筑波大学名誉教授。日本地名研究所元所長。主な作品に、『京都 地名の由来を歩く』シリーズ(ベスト新書)(他に、江戸・東京、奈良、名古屋、信州編)、 『大阪「駅名」の謎』シリーズ(祥伝社黄金文庫)(他に、京都奈良、東京編)『戦国武将はなぜ その「地名」をつけたのか?』 (朝日新書)などがある。

 

 

 

 

 

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