名古屋人以外も知っていてソンはないまち〈小牧〉
名古屋地名の由来を歩く
再び歴史の舞台に上った「小牧」
この小牧山が再び歴史の舞台に上がるのは、それから約20年後のことである。信長が本能寺で命を落としたのは天正10年(1582)のことだが、信長亡きあと、秀吉と家康の間が微妙なものになっていった。
本能寺の変の翌年に当たる天正11年(1583)秀吉は賤ヶ岳で宿敵柴田勝家を討つことに成功し、ポスト信長には秀吉が頭角を現してきた。それに対して信長の二男信のぶ雄かつが対立するようになり、信雄は家康と同盟を結びついに小牧・長久手の戦いの火花が切って落とされた。
秀吉はただちに犬山城を奪取し、他方の家康軍は小牧城に布陣した。双方のにらみ合いが続いたが、特に大きな戦闘はなく外交戦略を展開したといわれる。その後、秀吉は三河の岡崎攻めを敢行(かんこう)しようとするが、途中の長久手で敗退することになる。その経緯は「長久手」の項目で述べることにしよう。