室町幕府十九回目の滅亡?
大間違いの織田信長④ 信長は室町幕府を滅ぼしたのか?
信長は室町幕府を滅ぼしたのか?
織田信長というと、小学校の教科書でも必ず、「室町幕府を滅ぼした」と習います。元亀(げんき)4(1573)年に、十五代将軍の足利義昭を追放し、室町幕府が滅ぶという説明です。これは、教科書を書いている人が、よく分かっていないのでしょう。室町幕府をなめすぎです。
教科書の言う通り、将軍が実力者に京都を追放されたぐらいで滅亡だったら、二十回滅亡しています。
そんな数え方で言うと、織田信長が足利義昭を追放して滅ぼしたのは十九回目の滅亡に当たります。ちなみに意外に知られていませんが、足利義昭は京都から追放されたくせに、将軍をクビになっていません。信長が死ぬときまで、ずっと将軍でした。信長は将軍の位を奪えていないし解任すらできなかったというのが、実際です。当時、朝廷と信長は蜜月だったのですが、反信長勢力が強くてできませんでした。
要するに、それだけの力が信長になかったのです。
で、この足利義昭という人は、信長に京都を追放された後、備後(広島県)の鞆ともに亡命政権を樹立します。これまた意外に知られていないですが、持っている土地は鞆の狭い港だけなのに、やたらと現金収入があります。そして、ものすごく手紙を書くのにマメで、色々なところに「信長を討て」と命令書だけ出し、言うことを聞いたら「俺の命令でよくやった」と犯行 声明だけ出す人です。
途中で、「もうええかげんにせいよ」と、信長が義昭を相手にしなくなりますが、それでも室町幕府は存在し続けています。
信長が死ぬまで徹底抗戦を続けた足利義昭という人について、そんなしつこい人に信長がどう対処したかは、後でゆっくり追いましょう。
〈『大間違いの織田信長』(著・倉山満)より構成〉
明日は『信長はオリジナリティにこだわらないのが強み』
大間違いの織田信長⑤信長は革新的な人物だったのか?です。