伝来したばかりの銃で撃たれた戦国の男たち
季節と時節でつづる戦国おりおり第303回
蒸し暑い日が続く。薄着でもしたたる汗にうんざりしながら、「こんな天気でもよろい兜なんぞ着けて戦った侍たちは大変だったな、自分なら1日で死ぬな」などとボンヤリ呑気に思ったり。
戦国時代、こんな夏のさなかに合戦をおこなった記録が、やはり有る。今から467年前の天文19年7月14日(現在の暦で1550年8月26日)、三好長慶軍と細川晴元軍が京の街中で交戦。室町幕府管領だった晴元は、ライバルの細川氏綱を支持する長慶と争い続けるのだが、その中でこの戦闘がおこなわれた。三好軍を率いていたのは長慶の重臣・三好長逸、三好長虎(弓介。長逸の子)、十河一存。その数は18,000という。
特筆すべきなのは、三好弓介の被官が、細川軍の鉄砲で戦死していること。『言継卿記』に「きう介与力一人鉄―に当死」とあるのがそれで、“きう介”は“きゅう介”=弓介を指す。その与力=寄騎として従軍していた侍がひとり、「鉄―」=鉄砲の弾を受けて死んだというのだ。前年に南九州の島津・肝付の戦いで日本史上初めて鉄砲が実戦使用されたというが、この寄騎の侍はその翌年に洛中で日本史上最初の鉄砲による戦死者となったわけだ。
実はこの鉄砲も前年4月に本能寺を介して種子島から晴元が手に入れたもので、
「種子島から送ってもらった“鉄放”が到着した。本当に喜んでいるとあちらへも書状を送った」
と言継が本能寺に礼を述べた書状が「本能寺文書」に収録されている。
晴元がこの新兵器を1年経ってから実戦投入したのにはどんな背景があったのだろう。
まず、鉄砲を貸与する足軽がその扱いに習熟する時間が必要だったこと、火薬の調達に時間がかかったこと、鉄砲入手後すぐ梅雨に入り、その後めぼしい戦闘が無かったことなどが考えられるが、それだけ時間をかけただけあってこの日の鉄砲使用はなかなか堂に入ったものだったらしい。『言継卿記』は記す。
「細川右京兆人数足軽数百計出合、野伏有り」
右京兆は右京大夫で晴元の官途を意味し、三好勢の大軍に対してわずか数百の足軽が出動して「野伏せり」をかけたというのだ。圧倒的優勢を誇る三好軍に対し、都市部でのゲリラ戦で対抗したということで、その戦闘で満を持して鉄砲を投入してことになる。身を隠せる場所が多い市街戦での鉄砲は多大な効果をあげただろう。戦死した侍は先鋒を務める足軽大将だったとすると、特記されてはいないが彼の部下たちも大勢死んだ可能性が高い(ちなみに、武田家の足軽大将だった時代の真田昌幸の下には15人の騎馬侍と30人の足軽がいた)。