10月1日、「近くて一番遠い国」の建国記念日【71年前の今日:中華人民共和国建国】
平民ジャパン「今日は何の日」
■アメリカ・中国に何もできずに立ち行かなくなる
憲政史上最長政権を「ぬるっと継承」した新内閣は、メディアの支援もあってか、なぜか高い支持率をかせいでいる。米中対立のハザマにある日本の立ち位置はますます難しい。暗い目をした首相が、コロナでガタガタになった暗い時代に、このままではお先真っ暗な日本をリードすることになった。敵対派閥を排除して、本格政権を目指す布陣だが、アメリカの言いなり、中国には二枚舌では、立ち行かなくなる時がすぐに来る。
あとひと月で、アメリカ大統領選挙を迎える。アメリカも本格的に壊れかけている。開票日には大統領が決まらない。アメリカの分断はさらに進む。
いま、日本にできることは何もない。
米中関係はますますこじれる。踏み絵を踏まされる場面もあるだろう。日本に難問をグリグリ突き付けてくることも、平民の生活に影響を与えることも想像しておこう。
相手の事情をよく知らなければ立ち廻りは難しい。偏った情報で思い込みや決めつけは禁物だ。外交に疎い平民とはいえ、目の前に陣取る二大超大国についてよく知らないままでは(あるいは、知ったかぶりのままでは)、おバカな情報番組やタコつぼネットメディアにいいように刷り込まれる。好きなように誘導されて世論操作の末端を担わされる。
その先にはロクでもないことが待っている。どちらにつくかの二択ではない。どちらとも仲良くして、どちらとも(できればタフに)渡り合うのが外交だ。いずれも日本の命運にかかわる、貿易相手国1位の中国と、2位のアメリカだ。一党独裁と二大政党制で、政党と派閥の数だけは多いジャパンよりはスッキリしている。
■対中外交でアメリカを追い越せば――角栄の末路
対中封じ込めの意味もあって始まったベトナム戦争が泥沼化した60年代後半、アメリカは戦略見直しの必要に迫られ、中国との国交回復で、アジアの秩序再編成をねらった。
米軍の後方支援基地として、せっせと高度成長に邁進中だった日本だが、1971年のニクソン電撃訪中発表で完全にスルーされた。米中国交回復をまったく予測していなかった当時の佐藤栄作政権は、戦争状態の米中がいきなり握手をして泡を食った。中国と商売がしたい財界主流派は機を見るに敏、政府に先行して動いた。
ニクソンが実際に北京を訪問した7か月後、1972年9月、田中角栄はアメリカより先に日中国交正常化を果たした。
日本は台湾を切り捨てて、大陸中国に乗り換えた。ジャパンの変わり身の早さが、また歴史に刻まれた。喝采を浴びた田中角栄の行動力が、じつはアメリカを刺激していたことを、メディアも平民も知らなかった。その後の田中角栄の運命はご存知の通りだ。だから、日本の政治家はアメリカの虎の尾を踏まないように、ますます気を付けるようになった。
アメリカは大統領が変われば、閣僚はもちろん、高級官僚もいっせいに変わるので、戦略がぜんぶ変わる。出来レースジャパンとはそこが根本的に違う。民主党が勝てば対中戦略はガラリと変わるし、トランプが勝ったら勝ったで何をしでかすかわからない。トモダチだから内緒で先に教えてくれる、なんてことは絶対にない。対米追従と言われようと、プライドを捨ててあとからワタワタ追っかけるしかない。しかし、勢い余ってアメリカを追い越してはいけない。
■「友好」から「嫌中」への40年
1972年の日中国交正常化時、大新聞と系列テレビ局、NHKは日中国交回復ムードを思いきり煽って空気をつくった。それまで謎のベールに包まれていた共産中国は、突然好感度の高い隣国となった。パンダのカンカンとランランが上野動物園に寄贈されて、日中友好・親中時代の大使役を務めた。
1989年の天安門事件あたりから、中国に対するイメージはいっきにネガに変わり始めた。中国がワシントン条約に加盟をしてからは、寄贈品だったパンダは貸与品になった。巨額のレンタル料もかかるようになった。
2011年のリーリーとシンシンを最後に中国からパンダは来ていない。
上野のシャンシャンは、年末に返還期限を迎える。
経済的関係は年年歳歳、相互依存を強めながら、食の安全やコピー商品に始まって、本来結構なことのはずだったインバウンド観光客の買い物まで「爆買い」という型にハメて嫉妬交じりに蔑視した。使えるものはすべてネガキャンに動員されて、とうとう、いまだかつてない嫌中時代に入ってしまった。そこに武漢からの新型コロナ感染拡大が発生して、とどめを刺すかたちになった。