W杯出場決定でかわされる戦い方の話。「自分たちのサッカー」の是非論に感じる疑問
オーストラリア戦とはどんな戦いだったか
■岩政大樹・現役目線第27回
■「日本が素晴らしかった」の裏にあるもの
オーストラリアに見事な試合運びで勝利した日本。確かに素晴らしい内容と結果でした。ただ、試合とは全て、相手との相関によって進んでいきます。「日本が素晴らしかった」には「オーストラリアが良くなかった」ことが大きく作用しているので、あの試合はあの試合で置いておいて、その先を見ていかなくてはいけません。
それを選手たちは当然のことと捉えていると思いますが、周囲はどうでしょうか。ここ数日の風潮に耳をすますと、『やっぱり、「自分たちのサッカー」は間違いなんだ』とか、逆に「相手に合わせて戦い方を変えていて世界で勝てるのか」とか、『「自分たちのサッカー」を持つべきか否か』を「Yes」か「No」かで語ろうとするものばかりを目にします。
サッカーは語り合うことでしか見えてこないものある。だから、こうした議論が起こることはサッカーの未来を作ってくれると思いますが、同時に、「自分たちのサッカー」の捉え方に疑問を感じざるを得ません。
この僕なりの問題意識について、実は5月にプレゼンをさせていただいたことがあります。それは「ALE14」(エイル14)という(※最下部注参照)企画で、「自分たちのサッカー」という言葉に対して話しをさせていただきました。今回はこれについてもう少し掘り下げて説明したいと思います。
僕はそのプレゼンの中で、「自分たちのサッカー」という言葉に振り回される危険性について指摘をさせていただきました。言葉というものは思いの外、力をもっていて「自分たちのサッカー」「自分たちのサッカー」と口にしていると、いつの間にかそれをある一つの戦い方に限定しまい、チームの可能性を狭めてしまう、と。
本来、「自分たちのサッカー」とは選手たちにとっても漠然としています。”やり方”から捉えると何をもって「自分たちのサッカー」とするかは同じチームの選手でもバラツキがあるものなのに、シーズンが進むにつれて何か拠り所がほしい選手たちはだんだん「チームとしての正解」を決めたがり、それを決めることによってその「チームとしての正解」に向かってプレーしようとしてしまうのです。
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