揺らぐ教師の存在意義。いま求められるのは『学び合い』だ
ネット教材の発達は脅威。生身の教師、教室でしかできないことを
■『学び合い』という授業スタイルが求められる
このようにみていくと、早晩、旧式の授業スタイルでは通用しなくなるのは明らかだ。教師一人が30人~40人を相手に、教科書の内容をそのまま一方的に話して板書し、生徒にそのままノートにとらせる。これは最悪な例だろう。生身の教師にしかできない、そして教室でしかできないことを突き詰めていく必要がある。
そこで西川氏が提唱するのは『学び合い』だ。教師はあくまでも監督役として、生徒同士で共通の課題を解決させ、学び合わせる。たとえばこんな感じだ。
「最初にその日の課題を与えます。算数であれば、大抵は見開き2ページの問題を解いて、その中のポイントとなる1問を選び、みんながわかる説明を書くという課題になります。授業時間の9割以上は、子どもたちが立ち歩き、相談しています。そして授業終了の5分くらい前にまとめをします。といっても従来のように、何人かに質問し答えさせ、板書で教師がまとめるという流れではなく、『一人も見捨てない』という集団になっていたか否かについて語るのです。部活の顧問の訓戒に近いものです」(西川氏)
生徒が生徒、つまり“同士”から学ぶ。生徒同士が声を掛け合う。そして教師はそれを見守り、必要な時に声をかける。一見、これは変わった授業のように思われるが、実は原始的な学びの形だ。
「これはホモサピエンスにとって自然な学びの形です。原始時代に黒板はありませんでした。狩りの仕方であれば、年長者の後ろをついてやり方を教えてもらう。中世ヨーロッパでは徒弟制度がありましたが、これは別に親方に直接教わるわけではなく、先輩たちに教えてもらっていたのです。わが日本はどうでしょう。松下村塾、適塾で吉田松陰が、緒方洪庵が、彼らが直接教えていたかというとそうではない。勝手に子どもたちが学んでいたんですよ」(西川氏)
じつはわれわれが一般的に「授業」として思い浮かべる、教師が30~40人の生徒を前に板書し生徒がノートに写していく、というスタイルがとられるようになったのは人類の長い歴史の中でみればつい最近のことなのである。少子化、教育改革、ネット教材の発達…あらためて教師の存在意義が問われるいま、教育の原点である『学び合い』を取り入れる時期にきているのではないだろうか。