堺の墓⑤文化人たちその壱
季節と時節でつづる戦国おりおり第445回
堺の旧市街、中ノ町にある妙法寺さん。寺号からわかるように日蓮宗のお寺で、天文5年(1536)の「天文法華の乱」で京の妙顕寺が避難したことで知られます。いかに妙法寺さんが豊かな財力と人脈を持っていたかがうかがえる一件ですね。
そしてこのお寺の境内の墓地手前にあるのが、まず北向道陳(1504~1562)のお墓。
道陳は千利休の茶湯の、最初の師匠と言われる人物で、の舳松(へのまつ)町北向(きたむき)の生まれ。室町8代将軍・足利義政の同朋衆で茶事を担当した能阿弥という人物が堺に移り住むと親交して寝食をともにして茶湯の指南を受けたといいます。その後大林宗套に私淑して南宗寺の開基としました。ちなみにその場所は、現在の妙法寺さんあたりです。
町人の分際でそんな大層なことができたのか、と思いますが、この道陳は大資産家で多くの名物道具や財宝、田畑を所有していたといいますから、堺の町の南端にある舳松の豪商にして大地主だったのでしょう。彼が妙法寺の内に建てた二畳半の茶庵が有名になり、妙法寺さん自体が「二条半」とあだ名されたそうです。
そしてその左隣りに建っているのが、こちらの墓碑。
曽呂利新左衛門のお墓です。新左衛門は堺南荘の目口町の人で、刀の鞘師としてその技量を発揮し、「刀がソロリと収まる鞘を造る」ことで「曽呂利」と異名されたと伝わります。鞘造りだけでなく頓知や頭の回転も優れていたようで、豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)としても活躍しました。
秀吉から「何でも望みを申してみよ」と言われた新左衛門、「ならば殿下のお耳の匂いを毎日嗅がせていただきたく」と答えました。その日から新左衛門は人前で必ず秀吉の顔に鼻を寄せて臭いを嗅ぐようになったのですが、秀吉の御前に伺候する諸大名は「新左衛門めは何を殿下に吹き込んでおるのか。まさかわしの悪口を言っているのではあるまいな」と怯えてみな媚びを売るようになり、新左衛門の屋敷の門前には山のような贈り物が積み上げられたということです。