琉球王の江戸辞去
季節と時節でつづる戦国おりおり第448回
慶長15年9月20日(現在の暦で1610年11月5日)、島津家久が琉球(沖縄)の尚寧王とともに帰国のため江戸を出発。
前年の島津氏による琉球出兵の結果、琉球の尚寧王は島津家久に伴われて徳川将軍家に対し「外国使節」として挨拶をおこなうため駿府・江戸へ赴いていたもので、一行の中には、帰順派の池城(いけぐすく)親方(うぇかた)、抵抗派の謝名(じゃな)親方の両重臣もいました(『薩藩旧記』)。
駿府の家康に拝謁したあと一行は8月25日に江戸へ到着、桜田の島津屋敷に入り、以降一ヶ月弱滞在したあと、この日の帰国となったわけです。
『徳川実紀』には「島津陸奥守家久中山王を具し、木曽路を経て国に赴く」とありますが、『島津家覚書』だと「中山王は東海道を罷り上り、家久は木曽路を通り下国仕り候」となっていて、尚寧と家久は別ルートで帰国したようです。
家久の乗った船は筑前沖で難破し、一行のうち十人ほどが命を落とすという難渋の末に彼らは薩摩に帰り着き、そののち尚寧王らは家久から琉球の政治に関する誓約書に署名するよう強要されますが、謝名親方はこの際にただひとり署名を拒否して処刑されました(『薩藩旧記』はこれでは都合が悪いと考えたのか、水夫が服装規定に背いた事をむりやり謝名親方処刑の理由にしています)。
島津氏は、尚寧王ら琉球王国のトップを江戸へ連れて行っている隙に琉球の検地を済ませ、近世的な領地支配のノウハウを持ち込もうとしていたわけです。
この時島津氏が叩きだした琉球の石高は、89,086石だったのでした。