【新選組】隊列・武装体制はどんなものだった?
新選組、その知られざる組織の実態 第6回
大砲小銃を装備 参戦を想定して訓練していた
長州征伐への参戦に備えて、いつ出動命令が出されても対応できるように作られた隊士名簿が「行軍録」である。これは3度にわたり作成された。
①元治元年(1864)12月
池田屋事件後の元治元年10月、江戸で隊士募集を行った新選組は、隊士数が70人を超えた頃、最初の行軍録を作成した。
この名簿の特徴は、江戸での募集で新選組に加わったばかりの伊東甲子太郎を二番組頭(二番組の組長)に就任させた点にある。また、勘定方(会計)が戦時には小荷駄雑具方(兵糧などを運搬する部隊)を兼務することになった。
②慶応元年(1865)閏5月
江戸や京坂で隊士募集を行い、総員134名となったところで隊の再編が行われた。まず伊東甲子太郎は参謀に就任した。参謀とは戦時における臨時職である。副長に直属せず局長の直下におかれ、名誉職のようなものだと考えられる。
またこの行軍録では、平同士(平隊士)100名の上に伍長20名が置かれている。5人の隊士を1人の伍長が束ね、それを2つあわせた小隊を組頭が統括した。この小隊が一番隊から十番隊まであった。
③慶応元年9月
2度めの再編から4ヵ月後の9月、再び行軍録が作成された。これは土方が同月9日、手紙とともに武州の後援者である近藤周助らに伝えたものだ。「誠」の隊旗や、まとい、戦地に赴く際の完全武装の隊列が描かれている。特徴は、新選組が大銃隊や小銃隊などを取り入れ、軍備の近代化に関心を持っていたことが窺える点である(ただし新選組が積極的に銃を導入したのは、鳥羽伏見の敗戦以降である)。大銃頭(大砲奉行)に谷三十郎と藤堂平助、小銃頭(小銃奉行)に沖田総司と永倉新八が就任し、銃砲隊を率いた。
その他、軍奉行(参謀と同様の職)に伊東甲子太郎と武田観柳斎。槍頭に斎藤一や井上源三郎。小荷駄奉行に原田左之助が就任した。
さらに戦時中の法として「軍中法度」も定められた。「組長が討ち死にした時には部下も戦死を遂げよ。臆病者、逃げる者は斬る」「激しい戦闘中には、組頭の死体以外は引き上げてはいけない。その場から退いてはいけない」と厳しい内容だった。また真っ先に敵中に飛び込む「死番」という役目を四人一組でローテーションさせ、死をも恐れぬ強さを誇った。
3回も作成された「行軍録」であるが、結局、新選組が慶応2年の長州征伐に参加することはなかった。しかし参戦を想定して、「行軍録」にある通りの軍事演習を行ったことは確かであろう。そしてこの後、新選組はさらに組織編成を組み替え、改良して鳥羽伏見の戦いを戦ったと考えられる。