人呼んで「仏の茂助」! 気は優しくて力持ちなサムライ・堀尾吉晴
第三十一回 SAMURAIファイル 堀尾吉晴
日本が誇る錚々たる戦国武将たちの魅力。
外国人の目に我が国の英雄たちはどう映っているのか?
苦労人・吉晴! 波乱を乗り越えた男の静かなる度量
生きるか死ぬかの戦国時代! SAMURAIたちは今の現代人とは違った形で、さまさまなプレッシャーを感じていたに違いない。
そんなプレッシャーからのストレスを表情や態度に出すことなく、穏やかに生きていたとしたら、それはスゴイことだと思う。
堀尾吉晴。別名、茂助。彼は、そんなSAMURAIの一人だったようで、その温和な性格から「仏の茂助」と呼ばれていたらしい。
1542年、尾張丹羽郡(現在の愛知県丹羽郡大口町)に生まれた吉晴。お父さんは岩倉織田家の家臣だった。
この岩倉織田家と織田信長は、なんと対立関係! そのため結局は信長に滅ぼされてしまい、吉晴親子は浪人になってしまった。
そんな苦労の時代があったからこそ、精神的な強さをもった「仏」のような人間になれたのかもしれないなぁ…と想像したりもする。
さらには、こんなエピソードも残っている。
尾張を統一した信長と一緒に狩りに出かけた時の話。イノシシに遭遇した信長一行。吉晴は、信長の目の前で、武器を持たずにイノシシと格闘。そして見事、勝利! それを見た信長は、足軽大将として吉晴を召し抱えた…というストーリーらしい。本当かどうかはわからないけど、優しいだけじゃなく、きっと勇敢なSAMURAIだったんだね。
1600年の関ヶ原の戦いに関連してのこんな話もある。東軍側についた吉晴だったが、いろいろあって家康から自国へ帰国するように命じられてしまった。
その帰り道、吉晴は、刈谷城主・水野忠重、加賀野井城主・加賀野井重望たちと一緒に宴会をした。酔っぱらっているせいなのか加賀野井重望と水野忠重が、ささいなことからケンカをはじめてしまった! しかも重望は忠重を殺してしまった! さぁ「仏の茂助」いったい、どうする?
自身も数多くの槍の傷を負っていた吉晴。我慢の限界だったのか、結局は忠重を殺した加賀野井重望をその場で成敗した。
「仏」と言えども我慢ができないくらい不条理な出来事だったのか。それとも「仏」だからこそ、水野忠重の代わりに無念をはらしてやったのか。いやいや「仏」だったら、もっと他のやり方があったでしょ?と考えるのか…。
実際に見たことのない時代の、会ったこともない人たちだからこそ、いろいろな想像が膨らむ。だから歴史は面白い。
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