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家を守るために……如意城主・石黒氏の決断

季節と時節でつづる戦国おりおり第310回

 蛇池を見学した後、「さぁどう移動しようか」と考え、最寄りのバス停でバスを待つことに。とりあえず市バスの終点・如意車庫まで行って、あとはその場で考えようというルーズ過ぎるオッサンです。

 如意車庫から東に歩くと名古屋市立北高校があり、その向こうに瑞應寺さんというお寺がありました。正直、全然事前知識無く、偶然の出会いだったのですが、説明板を拝見すると「越中国貴船出身で南北朝時代に活躍しこの地の領主となった石黒重行のお墓あり」(抄出)、とのことだったので、せっかくだからと境内にお邪魔します。

 ですが、いくら探しても重行さんのお墓を見つけられず、寺の方にお教えを乞うと、区画整理で飛び地になってしまった北西の墓地にあるとのこと。

 おー、立派に整備されているのですね。なんでも寺の敷地はかつて石黒氏の居館・如意城の跡とか。また、重行の出身地・貴船というのは木舟のことで、木舟城はのち天正13年(1585)11月に発生した天正大地震で倒壊(城ごと9mも地盤が陥没したといいます)、前田利家の弟で城主だった秀継以下全滅しています。

 やれやれ、たまたま立ち寄ったお寺で戦国ネタに結びついてメデタシメデタシ、と思ったら…
 なんと、この重行から8代後の石黒重成は、天正12年(1584)の小牧・長久手合戦で織田信雄・徳川家康連合軍に参加して豊臣秀吉軍相手に戦功をあげ、そのお墓もこのお寺にありました。

石黒重成夫妻の墓

『尾張群書系図部集』をひくと、石黒氏は如意村の郷士で、重行は南朝方が圧倒されたあとこの地に逃れ、母方の長谷川姓を名乗って後に尾張守護・斯波氏に仕えた、とあります。さらに重成は尾張徳川家初代・義直に仕えましたが、その弟・重敦は池田恒興とともに討ち死にした、とも。

 ということは、小牧・長久手合戦で兄が徳川方、弟が豊臣方、と分かれて戦ったということですね。関ヶ原合戦で東西に分かれた真田家の様に、どちらが勝っても家が残るよう考えたうえでのことと考えられます。
 思いもよらず戦国時代の非情さ、家を守る意識の強さを痛感させていただきました。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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