議論のできない教師たちが繰り広げる、不毛な職員会議
【ゆとりからアクティブ・ラーニングまで】教育改革の9割が間違い 第4回
◆教師は審判役である
小学校や中学校の職員会議では、昔から管理職や実力者のお話を拝聴するだけで、議論や採決はしていないと聞く。指示・伝達を聞くだけで会議は終了するという。
そういう教師たちがアクティブ・ラーニングを指導できるのだろうか。アクティブ・ラーニングは従来いわれてきた教師の指導とは違うものだという人が出てくるかもしれないが、公然とであれ陰然とであれ、教師の指導の働かない授業はありえない。
このような点を考慮すると、アクティブ・ラーニングは生徒たちがとにかく議論や討議をすることに目的があるわけではないように思える。結論や生徒が学ぶべき事柄は、発言力のあるグループによって決定されるとか、多数決で決められるようなものではないはずだ。
また、どんなに生徒の議論や意見交換が白熱しても、その中に真理や正しさが入っているとは限らない。当然、正しかるべき真理や普遍的なものに教師が議論を誘導していくプロセスがあるはずである。
これにはパターン化ないしは方程式化することのできない、秘術のごとき業(わざ)が必要であろう。つまり、教師は生徒の討論の司会者でもなく議長でもない。
やはり、審判者の役を果たさなければならず、しかも、生徒の真意を理解しつつ、その審判する内容はクラスや生徒や議論の外部に普遍的と認められた真実でなければならない。
そう考えると、アクティブ・ラーニングは教育方法ではなく精神として位置づけるべきもののように思える。
<『教育改革の9割が間違い』より構成>
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