史上最悪の損傷を被ったにもかかわらず帰還した、第二次大戦時ドイツ軍の「Uボート」
オムニバス・Uボート物語 深海の灰色狼、敵艦船を撃滅せよ! 第9回
U505の数奇な運命:呪われたUボート
1941年5月25日、ハンブルクのドイッチェ・ヴェルフト社で1隻のUボートが進水し、同年8月26日に就役した。艦籍番号はU505。第二次大戦前にドイツ海軍が標準生産型とした500t級と1000t級の2種類の航洋型Uボートのうちの後者に属する1型式のⅨC型で、53.3cm魚雷発射管を艦首に4門、艦尾に2門装備して魚雷22本を搭載。最大速度は水上19ノット、水中7.3ノット。最大潜水深度は230m。乗組員は約60名だった。同型艦は54隻で、全艦が1942年中頃までに完成している。
このⅨ型シリーズのUボートは兵装、速力や航続力、艦のサイズと運動性といった諸性能のバランスがきわめてよくとれており、大戦の中期まで、中~長距離の哨戒任務の主力として大活躍した。ちなみにU505と同じ造船所で建造され、約4か月後に就役した同じⅨC型のU511は、日本が同型艦を量産してインド洋のシー・レーン遮断に投入することを求めるヒトラーの配慮で、生産見本として日本に譲渡された。同艦は1943年8月7日に呉に到着して『呂500』潜水艦と改名。多角的な研究こそされたものの、当時の日本の技術力では同型艦の建造は不可能であった。
さて、このU505だが、「呪われたUボート」と呼ばれることがあるほど不運な艦であった。まず1942年11月10日の同艦にとって4回目の哨戒航海時に、トリニダード近海でイギリス空軍沿岸航空軍団第53中隊のロッキード・ハドソン哨戒爆撃機に攻撃され、大損害を被ってしまった。艦長ペーター・ツェッヘ大尉は艦の放棄を決断しようとしたが、ベテランのオットー・フリッケ機関准尉の進言で思い直して修理を実施し苦難の末に帰還。この生還劇によりU505には「史上最悪の損傷を被ったにもかかわらず帰還したUボート」という渾名が付けられた。
というわけで、最初の不運は生還という幸運でプラマイゼロと言えなくもないが、もうひとつの不運は、おぞましくも忌まわしいものだった。
その出来事は、U505の10回目の哨戒航海時に起こった。1943年10月24日、アゾレス諸島の東方でイギリス駆逐艦に攻撃されている最中、艦長のツェッヘが潜航中の発令室内で、あろうことか拳銃自殺を遂げてしまったのだ。世界の海軍史上でも前代未聞の出来事である。だが先任士官パウル・マイヤー中尉の果敢な指揮で虎口を脱した同艦は、途中ツェッヘの遺体を水葬に付して帰還した。
ちなみに、先の大損害を被った際に艦を放棄しようとした事例と合わせて、実はツェッヘは恐怖に耐え切れず、精神を病んでいたのではないかといわれている。