【戦国武将と城】「築城の名手」明智光秀!「天下の謀反人」の真実《大河おさらい「光秀」基本の「き」》
謎に包まれた生涯を関わりの城とともにひもとく①
大河ドラマ『麒麟が来る』もいよいよ大詰め。
明智光秀、観ていないから、わからない?
いえいえ、まだまだ間に合います‼️
戦国武将とお城の関係、つまり「戦(いくさ)」への準備、守り、攻撃という切り口から、光秀をとらえかえすと、光秀の人生の真実が見えてきます‼️
明智光秀は、武勲も多く織田家臣団の出世頭。
領民からも慕われ、築城の名手・・・
その謎に包まれた生涯を関わりの「城」とともにひもとく!
■多くの謎に包まれた明智光秀の一生
戦国武将として、明智光秀の知名度はかなり高い。それは、ただ本能寺の変で主君織田信長を討ったというだけでなく、織田家臣団の働き頭であり、信長の天下布武(ふぶ)を下支えした一人だったからである。
ところがその光秀は謎だらけで、生まれた年、生まれた場所、さらに、父親の名前までも、諸説がある状況なのである。現在のところ、一番有力視されているのは、享禄元年(1528年)の生まれで、出生地は岐阜県可児(かに)市瀬田の明智城、父親の名は明智光綱とされているが、あくまで「そのように考えられる」というだけで、確実というわけではない。
ただ、信長との関係からみると、父・光綱の姉妹が斎藤道三(どうさん)に嫁ぎ、そこで生まれた帰蝶(きちょう)[濃姫]とはいとこの関係になるので、若い頃は光秀も道三の薫陶を受けたと考えられている。
結局、弘治2(1556)年、道三が子の高政、すなわち義龍(よしたつ)と戦って討ち死にしたあと、道三方だった明智城は義龍の軍勢に攻められ、光秀は美濃を追われる形で越前の朝倉義景(よしかげ)のところに落ちていくこととなった。しかし、そこですぐ仕官をした形跡はなく、しばらく浪人生活を余儀なくされていたのである。
その越前の朝倉義景のもとに足利義昭(よしあき)・細川藤孝(ふじたか)主従が転がり込んできたことで、光秀の人生はがらりと変わる。
光秀が仲介役になって、義景のもとにいた義昭・藤孝主従を、尾張から美濃にまで勢力を伸ばしてきた信長に引き合わせることに成功する。そして、その結果、信長は永禄11(1568)年9月、義昭を擁して上洛することになり、その頃の光秀の立場は、義昭と信長の二人に「両属」する形であった。
二人の仲がよい間はよかったが、やがて亀裂が生じ、ついには信長によって義昭は追放されることになり、光秀は義昭から離れ、信長の家臣として次第に頭角を現わすのである。
実は、義昭が追放される前にも、元亀元(1570)年4月の越前朝倉攻めのときに「金ヶ崎(かねがさき)の退き口(のきくち)」で軍功をあげた。
翌年9月の比叡山延暦寺の焼き討ちでも手柄をあげ、同年末、琵琶湖畔の坂本に城を築いており、義昭が追放された後、天正3(1575)年からは丹波攻めの大将を命ぜられているのである。
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