【戦国武将と城】「築城の名手」明智光秀!「天下の謀反人」の真実《大河おさらい「光秀」基本の「き」》
謎に包まれた生涯を関わりの城とともにひもとく①
光秀ゆかりの城・戦場マップ
◼︎教養文化人・人情味あふれる「光秀」
光秀は、信長家臣団の中では教養があり、京都の公家たちとのつきあいもこなすことができた。信長から京都奉行を仰せつかったのも、そうした文化人としての側面が評価されていたからと思われる。
また、新しく領地として与えられた丹波では善政を敷いたことでも知られている。地子銭(じしせん)を免除したり、福知山では、城下を流れる由良(ゆら)川がよく氾濫していたため、川の流路を変える工事を行い、さらに堤防を築いているのである。
現在、「光秀発給文書」は写しも含め180通ほどが確認されているが、その中には、家臣の怪我を心配した見舞いの手紙が何通かある。また、中には、怪我をした家臣に薬を送っているようなものもあり、部下思いだったことがうかがわれる。
光秀一族の墓がある坂本の西教寺(さいきょうじ)には、合戦で亡くなった家臣の供養を依頼するための供養米寄進状がある。注目されるのは、戦死した家臣18人中17人までは苗字を持った武士であるが、1人は苗字のない中間(ちゅうげん)という身分の者だった。このような低い身分の者にまで供養を依頼している例はほとんどないのではなかろうか。
こうした人情味のある光秀だから、人を人とも思わない態度をとる信長についていけなくなったのかもしれない。本能寺の変、光秀謀反の理由の一つにカウントされる可能性はある。
監修・文 小和田哲男
1944年静岡県生まれ。静岡大学名誉教授。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」等にも出演。数々のNHK大河ドラマで時代考証を務め現在放映中の「麒麟がくる」も担当する。
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