稲作は縄文時代に伝わった!? 常識が変わる「末盧国」の遺跡巡り
古代遺跡の旅【第2回】 魏志倭人伝ゆかりの地を巡る。―その②―
邪馬台国はどこにあったのか?そして、卑弥呼は実在したのか?
いまなお、日本人がその謎に胸をときめかせるこの歴史テーマは、たった二千字で書かれた「魏志倭人伝」がもたらしたものだ。
邪馬台国は畿内なのか?はたまた九州なのか? さらにいえば、東遷説が正しいのか?
そして卑弥呼の都とは?
そのヒントとなる魏志倭人伝によると、1700年以上前、「倭国」と呼ばれた我が国には、三十ほどのクニグニがあったという。諸説あるが、その中で、所在地がおおよそ比定されているのが、対馬国(対馬)、一支国(壱岐)、末盧国(唐津市)、伊都国(糸島市から福岡市西区)、奴国(春日市から福岡市)の、九州における5つのクニといわれている。
Part1では、奴国(なこく)、伊都国(いとこく)について、レポートした。今回のPart2では末盧国(まつろこく)について書こうと思う。この地では教科書で習った常識がひっくり返るような遺跡にも出会った。
司馬遼太郎氏がいうところの「われわれ日本人の祖形」を求めて、旅はまだまだ続く。
【ライターからひとこと】 この連載は、考古の世界への旅の先達、専門ナビゲーターとして、毎回、考古学の専門家に監修をお願いしています。今回の先達は、大阪府立弥生文化博物館 館長 禰冝田佳男(ねぎたよしお)先生です。文中に先生のコメントも登場しますのでお楽しみに…!
■又渡一海千餘里至末盧國(また一海を渡ること千余里で末盧国に至る)〜末盧国へ
末盧国とされるのは現在の佐賀県北部、唐津市、東松浦郡の一部と言われているが、その中心地は唐津市だった。 玄界灘に面した末盧国は、海、山、平野それぞれの地域の特色を生かして、水田稲作、狩猟、採集、などを行いながら、豊かな歴史を紡いできた。旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、そしてそれに続く時代へ、全ての時代において「カラへ渡る津(港)」、つまり朝鮮や中国への架け橋となる地として、唐津の名が古くからあるのだという。
ここは古代から砂丘地帯であり、多くの遺跡が見つかっているが、遺跡があるということは人が集まり、生業の営みがあり、交易が行われ、この地が隆盛した証といえる。 魏志倭人伝の中にも、末盧国は「四千余りの家があり、人々は好んで魚介を捕る」と描かれていて、豊かな食の宝庫である海に近く、多くの人々が活発に生活を営んでいたことが伝わってくる。エリア内には松浦川が流れており、河川と湾岸の水運がこの地域の発展に大きく関与しているはずだ。
●桜馬場(さくらのばば)遺跡
まずは、数多く残る遺跡の一つ、「桜馬場」遺跡を訪ねた。
この遺跡は近代になって、ほんの偶然から見つけ出された。
太平洋戦争の真っ只中、唐津市桜馬場地区でも米軍の空襲から人々を守るための退避壕をつくることになった。竪穴を掘っていくうちに、地中から甕棺やおびただしい副葬品が出土した。当時、松浦史談会の副会長を勤めていた龍渓顕亮(たつたにけんりょう)氏が、その内容の詳細な記録を残してくれている。
氏の判断で、甕棺は地中に戻され、副葬品は地権者のもとに留め置かれたという。この迅速な判断で、貴重な副葬品が散逸することはなく、今は佐賀県立博物館に国の重要文化財として保管されている。
その内容がすごい。
流雲文縁方格規矩四神鏡(りゅううんもんえんほうかくきくししんきょう)、素文縁方格規矩渦文鏡(そもんえんほうかくきくかもんきょう)各1面をはじめ、有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)や巴形銅器(ともえがたどうき)、鉄剣、ガラス製管玉などなど。時代は弥生時代後期、まさしく、末盧国の王墓といっても過言ではない、贅沢な副葬品が出土している。
とくに巴形銅器は、釘隠しのようにも思えるし、手裏剣のような武器にも見えるし、今で言うなら武骨なフックといったイメージか? 誰が、なぜ、何のためにつくったのだろう。
「巴形銅器は盾の飾り金具だと考えられます。大阪の和泉黄金塚古墳の発掘調査で出土した盾の模様からわかりました。おそらくですが、この曲がった先端に魔よけの機能があったと考えられています。直弧文なども円形の先はとがっていますよね。墓からは鏡もよく出てきますが、こういった副葬品には遺骸を守る魔よけの意味があったと思いますね」(禰冝田先生)
現在、遺跡を訪れてもそこは小さな更地で、当時の面影は全くない。が、静かな住宅地の中で、その昔、退避壕築造のために掘ったところに、まさかの弥生時代の出土品が現れるなど、奇跡としかいいようがないだろう。この町の古代への見識ある人たちのおかげで、宝物が残ったことにほんとうに感謝したい。