【戦国武将と城】ルイス・フロイスも激賞 「築城の名手」明智光秀の真実❷——近江宇佐山城から坂本城へ《大河おさらい「光秀」基本の「き」》
謎に包まれた生涯を関わりの城とともにひもとく②坂本城
大河ドラマ『麒麟が来る』もいよいよ大詰め。
明智光秀、観ていないから、わからない?
いえいえ、まだまだ間に合います‼️
戦国武将とお城の関係、つまり「戦(いくさ)」への準備、守り、攻撃という切り口から、光秀をとらえかえすと、光秀の人生の真実が見えてきます‼️
明智光秀は、武勲も多く織田家臣団の出世頭。
領民からも慕われ、築城の名手・・・
その謎に包まれた生涯を関わりの「城」とともにひもとく!
坂本城(さかもとじょう)
延暦寺を監視するために琵琶湖畔に築かれた平城
■信長家臣「一国一城の主」第一号
光秀が最初に信長から一つの城を任されたのは近江宇佐山城(大津市錦織町)で、これは城主だった森可成(もりよしなり)が浅井(あざい)・朝倉軍との戦いで討ち死にしたあとを受けたものであった。
そして、元亀2(1571)年9月の信長による比叡山延暦寺の焼き討ちのあと、それを監視する目的で新しく麓の坂本に城を築くことになり、光秀は信長より築城を命ぜられ、宇佐山城から移ることとなった。注目されるのは、そのとき、光秀には坂本城だけでなく、城のある志賀郡も与えられていることである。これはいわゆる「一国一城の主」というわけで、光秀が、宿老といわれた柴田勝家らより早く「一国一城の主」になったことを意味した。いかにも能力本位の人材抜擢をした信長らしい人事といってよい。
◼︎「天守」のあった豪壮華麗な坂本城
さて、その坂本城であるが、琵琶湖畔に築かれた典型的な平城で、湖に面した本丸から内陸部にかけて二の丸、さらに三の丸が一列に並ぶ連郭式の縄張だったといわれている。
坂本城に天主(守)が建てられていたことは、光秀と親交のあった吉田兼見(よしだかねみ)の『兼見卿記』元亀3(1572)年12月22日の記事に「城中、天主の作事」と書かれていることによってうかがわれる。実際にどのような天主だったかは残念ながらわからないが、安土城の天主より早いことはまちがいない。
ルイス・フロイスの『日本史』にも、坂本城について、「それ(坂本城)は日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」と記されている。
また、フロイスの『日本史』の他のところでは、光秀について、「築城について造詣がふかく、すぐれた建築手腕の持ち主」と評しており、そうした築城術をいつ、どこで身につけたかわからないものの、信長家臣の中では周囲から築城名人とみられていたことがうかがわれる。
ただ、この坂本城は天正10(1582)年6月の山崎の戦い後、光秀の娘婿明智秀満が攻められ落城している。
監修・文 小和田哲男
1944年静岡県生まれ。静岡大学名誉教授。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者。NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」等にも出演。数々のNHK大河ドラマで時代考証を務め現在放映中の「麒麟がくる」も担当する。