冬が来る前に
季節と時節でつづる戦国おりおり第450回
何かと気ぜわしい年の瀬が、もうすぐそこに迫って来ました。今年はコロナ禍によって忘年会や年末の挨拶回りをおこなわないところが多くなりそうで、いつもとは赴きが異なるとはいいながら、本格的な冬が来る前に片付けておきたい案件も多い筈。かつてフォークグループの紙ふうせんは「冬が来る前に、もう一度あの人と、めぐり遭いたい」と素敵な歌声を聴かせてくれましたが、「冬の来る前に、もう一度あの人と、打ち合わせたい」というわけです。
そんなわけで、今から438年前の天正10年10月28日(現在の暦で1582年11月23日)、羽柴秀吉が惟住長秀・池田恒興らと六条本圀寺に会して、天下を静めることを決定しました。
『蓮成院記録』に「二十八日、六条の寺にて羽芝筑前守・刃場五郎左衛門・池田紀伊守両三人相談じられ、天下相静めるべき旨治定の由申し来たる」とある通り、天正10年(1582)10月28日(旧暦)、秀吉・長秀、それに池田恒興が京六条の本圀寺に集まって天下静謐を実現する事を宣言します。ちなみに丹羽長秀が「刃場(はば)長秀」と表記されている件ですが、織田家中では佐久間信盛の若いころの通称も「半羽介(はばのすけ)」でした。「ハバ」は「省(はぶ)かれる」からなまったのでしょう。名古屋弁でのけ者を意味しますから、当時は傾(かぶ)いたバサラ者、世間からの嫌われ者を意味していたと思われ、信長家中でも好んで「俺はハバだ」と荒くれ者を自負する気風があったということだと思います。
閑話休題。
9月にも秀吉・長秀らは京で何事かを打ち合わせしており、10月に入ると6日に柴田勝家が堀秀政に秀吉の専横を非難する書状を発し、15日には秀吉が大徳寺で信長の葬儀を大々的に執行、さらにその後、織田信孝からは秀吉に勝家との不和を仲裁しようという書状が発行され、秀吉もこれに応えて信孝の冷たさを愚痴り自分の正当性を訴える返書を出すなど、秀吉派と勝家派の虚々実々の駆け引きが続いています。
『兼見卿記』には「五郎左台所人・茶坊主両人下々各来たる」とあり、翌日とんぼ帰りで領地の近江坂本へ戻る長秀が、あるいは毒殺を警戒して料理人や茶同朋まで自前のスタッフを引き連れて来ざるを得ないほど物騒な状況だったのかも知れない、と想像が広がります。
実際、11月2日に前田利家が勝家の代理として秀吉の元を訪れ、講和を申し入れたものの、これは冬になると雪に閉ざされて軍事行動ができなくなる越前を本拠とする勝家側の時間延ばしのための擬態でしかなく、これを受け入れた秀吉もまた、そんな事は重々承知の上で、勝家が雪で動けなくなった12月9日には待ってましたとばかり長浜の柴田勝豊・岐阜の信孝の攻撃を実施するのでした。