持統天皇が皇位継承トラブルを避けるためにやったこと
女性天皇君臨の系譜の謎③
「壬申の乱」の反省から
「皇太子」の地位が確立する
歴代の女帝の中でも第41代持統天皇の存在感は大きい。その理由の一つは、後世にいくつもの事績をのこしたことだ。だがそれに劣らず、皇位継承のルールの上で画期をなしたことに注目すべきだ。
持統天皇の夫だった第40代天武天皇は壬申の乱(672年)という古代史上、最大の内乱を勝ち抜いて即位した。この乱は先帝で天武天皇の兄だった第38代天智天皇の皇子、大友皇子を首班とする近江朝廷との激烈な戦いだ。結局、敗れた大友皇子は自死している。朝廷そのものが武力で倒されたのも歴史上、空前絶後のこと。こんな悲劇は二度とくり返したくないと、誰もが考えたはずだ。
だが、誤解してはならないことがある。当時、天智天皇がムリヤリ大友皇子を皇位につけようとして壬申の乱が起こったのではない――ということだ。何しろ大友皇子の母はよく知られているように地方豪族の娘(いわゆる卑母)であり、しかも本人の年齢もまだ25歳だった。これでは、どれだけ容貌、体格がすぐれ、博識で才能に恵まれていても(『懐風藻』)天皇になることはできない。そんなことは天智天皇もよく分かっていたはずだ。
そこで弟の天武天皇に皇位を譲ろうとしたが、天武天皇は兄の本心を読み切れず、天智天皇の皇后の倭姫王の即位を提案して辞退してしまった。その上、天智天皇が間もなく亡くなったことで、天武天皇サイドに疑心暗鬼が生まれ、誰も望まなかった内乱が起きてしまう。それが壬申の乱勃発の真相だった。それまでも皇位継承をめぐるトラブルはしばしばあった。だがここまで大がかりな内戦はかつてない。
そのため皇位継承にともなうリスクをなるべく軽減する手だてが求められた。その結果、「皇太子」という地位が確立され、譲位の慣行が定着化し、「太上天皇」という地位が新しく設けられることになる。まず皇太子の地位が制度上、確立するのはいつか。『日本書紀』には天武10年(681)2月、天武天皇とその皇后だった持統天皇の間に生まれた草壁皇子が「皇太子」に立てられたと記す。だが草壁皇子は、天武天皇が亡くなって3年たっても即位しないまま、没している。予め決められた次代継承者たる皇太子だったとは考えられない。皇太子でなかったから、当時まだ24歳という年齢のハードルを越えられなかったのだろう。