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「魅力的で人望も篤かった」芹沢鴨暗殺の舞台裏

幕末京都事件簿その①

◆170cmの大男を暗殺するには…

 しかし、ことは簡単にはいかなかった。まず芹沢は、身長が170㎝以上あったと言われ、当時とすれば大男だった。さらに武芸に優れ、神道無念流の免許皆伝の腕前があり、かなり手強かった。
 そこで土方歳三が一計を案じ、芹沢の好きな酒に酔わせて討つ作戦に出た文久3年(1863)の9月18日、近藤らは壬生からほど近い花街の島原で宴席を設け、芹沢らに酒を存分に飲ませた。酩酊した芹沢、平山五郎、平間重助らは、愛妾と八木邸に戻り、さらに酒盛りを続け、ようやく寝入ったときは、さすがの芹沢も泥酔状態だったと思われる。 

 その日は土砂降りで、刺客の足音もかき消されたであろう。土方、沖田総司、山南敬助、原田左之助の4人の刺客が覆面姿で母屋に近づき、一気に座敷に飛び込んだ。芹沢の隣に寝ていたお梅がまず刺され、「ぎゃー」という叫び声で目覚めた芹沢は、脇差を手に取って、鴨居で頭を打ちながらも縁側沿いに、隣の座敷まで逃げ出したといわれている。
 しかし隣の座敷の入り口には、八木家の子供の文机が置かれており、芹沢はそれに足を取られて、どうっと倒れたところを襲われ、絶命したという。一番遠い部屋に寝ていた平間と遊女の糸里の二人は、奇跡的に刃を逃れて助かった。

 この乱闘で八木家の鴨居には、今なお、刀傷の跡が生々しく残されている。
「新選組が当家を宿にしていたのは、11代目の源之丞の頃で、当家の家族も寝食を共にしていたようです。祖父や父から聞いた言い伝えによると、芹沢鴨という人は、なかなか魅力的で人望も篤かったようですね。もし酒癖が悪くなければ、彼がずっと局長だったかもしれないですし、新選組の歴史も変わっていたかもしれませんね」。 

 しかし芹沢鴨は、文久3年の土砂降りの夜に命を絶たれた。この事件により、新選組は近藤勇のもと、一枚岩で結束を固め、ここから戦闘集団としての活躍が始まった。

〈雑誌『一個人』2017年12月号より構成〉

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木村 武仁

きむら たけひと

1973年京都府生まれ。霊山歴史館(幕末維新ミュージアム)学芸課長。専門は幕末・明治維新期における思想史と政治史。著書に「ようわかるぜよ!坂本龍馬」(京都新聞出版センター)、「図解で迫る西郷隆盛」(淡交社)。


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