鄧小平が激怒した、金正日の“修正主義呼ばわり”
こうして中朝関係は冷え込んだ。 シリーズ!脱中国を図る北朝鮮⑦
なぜ、北朝鮮は日本に対して、威嚇行動をとり続けているのか? そもそも北朝鮮はなぜ、この様な国家になったのか? 中ロ情勢に精通する歴史家、田中健之氏が「周辺」から北朝鮮の本質を考察していく。新刊『北朝鮮の終幕』より10回にわたってお届けしたい。〈シリーズ!脱中国を図る北朝鮮⑦〉
「修正主義者」呼ばわり
朝鮮民主主義人民共和国の建国の父と謳われている金日成主席は、1982(昭和52)年4月15日、70歳の誕生日を機に、長男の金正日に政権実務を手渡しました。
同年9月16日、金日成主席の後継者として中国を公式訪問しています。この時、鄧小平中国共産党中央軍事委員会主席をはじめ、胡耀邦党総書記、趙紫陽首相、翌年国家主席に就く李先念らが北京駅に金正日氏を出迎え、手厚く歓迎しました。
中国を公式訪問した金正日は、上海をはじめ南京、青島など改革開放が進む
沿岸都市を見て回って帰国しました。
同年6月15日に開催された朝鮮労働党中央委員会第6期7会議において金正日は、「中国共産党は、社会主義や共産主義を捨てた」と激しく批難し、「中国が国是に掲げる〝4つの近代化〟路線は、資本主義を目指すもので、修正主義だ」と談じたのです。
鄧小平を「修正主義者」呼ばわりした上、中国の改革開放路線を全否定した、金正日の言動は、即刻、秘密ルートを通して中国共産党指導部に伝えられました。
これに鄧小平は、「何て馬鹿な奴だ。世間知らずの小童(黄嘴郎)のせいで、中国は危険にさらされるかもしれない」と激怒したといいます。
事態を深刻に受け止めた中国指導部は、金日成主席を呼んでその真意を確か
め、鄧小平は、「金正日氏とは、協力関係を築けなくなるかも知れない」と懸念を伝えました。
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