なぜ「禁門の変」はあれほど激戦化したのか
幕末京都事件簿その③
長州藩伏見屋敷にいた家老の福原越後は、約700名を率いて出陣し伏見街道を北上したが、途中、大垣藩と交戦し、福原が狙い撃ちにされ顔面を負傷したことから、士気が落ち、伏見へ退却を余儀なくされた。一度隊を立て直し、今度は竹田街道を北上するも、彦根藩兵と会津藩兵に敗れて山崎まで退却し、京都市中に入ることさえできなかった。
一方、洛西・嵯峨の天龍寺に陣を敷いていた家老・国司信濃(くにししなの)は、兵約800名を率いて、夜半に進発。中立売通(なかだちうりどおり)を東に進んで、下立売通(しもたちうりどおり)を進んだ来島又兵衛隊と蛤御門で合流した。
蛤御門は会津藩が守っており、又兵衛は会津の林権助と激戦を繰り広げた。しかし西郷隆盛率いる薩摩兵が会津兵に合流すると、一気に戦況は長州勢に不利になり、又兵衛は馬上において鉄砲で撃たれて戦死した。
指揮官を失った長州兵は、山崎方面まで退却する。
また山崎に陣取っていた真木和泉や久坂玄瑞は、兵約500名とともに、堺町御門に迫り、越前、桑名、会津の兵と激しい戦闘を繰り広げていた。
この時、久坂は築地塀を乗り越えて公家の鷹司邸に潜入したが、足を撃たれて歩くことができなくなった。結局、久坂と寺島忠三郎は鷹司邸内で切腹し、そこに会津藩が大砲を放って、鷹司邸は大炎上して崩れ落ちた。
翌朝、鷹司家の中小姓である兼田義和がその場所にあった2人の遺骨を拾って一乗寺の詩仙堂に埋めたという。現在、詩仙堂には、久坂と寺島の位牌がある。久坂25歳、寺島22歳の若さだった。
三方向から京都に攻め上った長州勢だったが、奮戦も虚しく敗退した。禁門の変は、別名「蛤御門の戦い」ともいう。
「もともと、八月十八日の政変によって長州は薩摩を恨んでいましたが、禁門の変によって両者の確執は決定的なものになってしまいます。たった1日の戦闘で、長州藩は250名以上の尊い命を失いましたが、それだけでなく、御所を攻撃したとして“朝敵”になってしまいます。このことが、その後の、第一次長州征伐、第二次長州征伐へと連鎖していくのです」。
禁門の変によって、薩長の確執は深まり、幕末の動乱がさらに加速してゆく。
〈雑誌『一個人』2017年12月号より構成〉
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