聖徳太子と蘇我馬子との対立は本当にあったのか?
『日本書紀』が伝える聖徳太子の「本当の姿」に迫る!⑦
太子が新たに斑鳩の地に宮殿の造営を始めたということは、彼の地位・身分が上昇し、新たな使命をあたえられ、それに即応した王宮の造営が必要になったことを物語る。
斑鳩は飛鳥の北方約20キロに所在する。そこは内陸の飛鳥よりも陸路・水路を通じて中国や朝鮮半島に直結する難波津へのアクセスに便利であった。太子が飛鳥ではなく斑鳩の地に新たな拠点をもうけたということは、彼にあたえられた役割がいわゆる外交であったことを示すといえよう。
斑鳩は権力闘争に敗れた太子の隠棲の地などではありえず、太子の活躍はこれ以後に始まるのである。
以上のように考えるならば、太子と馬子が対立関係にあったという痕跡はみあたらない。
また、太子は蘇我氏の血を色濃く受け継いだ皇子でもあった。
聖徳太子の両親はともに欽明天皇の皇子女であったが、母親が違った。聖徳太子の父・用明天皇の母は堅塩媛。太子の母・穴穂部間人皇女の母は小姉君であった。堅塩媛も小姉君も蘇我稲目のむすめであったから、聖徳太子のからだには父方からも母方からも蘇我氏の血が濃厚に受け継がれていたのである。
このことからも、聖徳太子は、むしろ蘇我氏と利害を共有するところが多かったとみなすべきであろう。
〈次稿に続く〉
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