聖徳太子に関する『日本書紀』の“誇張”表現
『日本書紀』が伝える聖徳太子の「本当の姿」に迫る!⑧
耳がよく聡明で、法隆寺を築き仏教を広め、推古女帝の摂政として活躍した人物──。聖徳太子に関する一般的なイメージはすべて『日本書紀』の記述が元になっている。『日本書紀』が書かれた過程を知れば、その真実の姿が見えてくる! 聖徳太子の実像に迫る連載。
◆『日本書紀』は誇張も含んでいる!聖徳太子の本当の事績をたどる
前に述べたように、聖徳太子が推古天皇の皇太子であったとするのは疑わしいが、彼が推古や大臣蘇我馬子を中心とする政権に参画して一定の活動を行なったことは間違いない。では、太子は実際にどのような成果を遺したと考えられるであろうか。
『日本書紀』推古12年(604)4月戊辰条は、太子が憲法十七条とよばれる法典をみずから制定したと記し、その全文と思われるものが掲げられている。これは『日本書紀』において極めて異例のことであるが、その内容は朝廷に仕える豪族たちへの訓戒やその服務規定というべきものであり、われわれの知るいわゆる憲法とは明らかに異なる。
森博達氏の研究によるならば、この憲法の文章は『日本書紀』のうち持統天皇の時代に書かれたものに酷似しているという。推古の時代に朝廷に奉仕する者に対するこのような訓戒や服務規定が発布された可能性は否定できない。だが、『日本書紀』に掲載されたのとそっくり同じものが当時制定・発布されたかどうかは疑わしいといわねばならない。
つぎに冠位十二階であるが、これに関しては『日本書紀』推古11年(603)12月壬辰条にその制定のことが記され、翌年正月戊戌朔にそれが施行されたことが述べられている。しかし、注意すべきは太子が冠位制度を定めたとは明記されていないことである。
冠位は、天皇の臣下の序列を可視的にあらわすという点で画期的な制度であった。重要なのは太子が蘇我馬子とともに冠位を授ける側にあったということである。だが、冠位十二階は、後世の位階制とは異なって、天皇の臣下のすべてにあたえられ、彼らを整然と序列する制度にはなっていなかった。
〈次稿に続く〉