島津家史料で分かること ~関ヶ原合戦のこと②
季節と時節でつづる戦国おりおり第454回
※「懇親会の季節と毛利輝元と石田三成 ~関ヶ原合戦のこと①」より続く 石田三成と毛利輝元の茶会に陪席した雑賀内膳なる人物。関ヶ原合戦のときの記録『義弘公御譜』『惟新公関原御合戦記』にもその名が登場する。
この2つの史料、ともに島津家がのちに編纂させたもので、そこに内膳が登場しているのも確実な情報ではない、彼が三成の先鋒を務めたというのは作り話ではないか、という説もあるのだが、後者は前者を参照した上で実際に関ヶ原へ従軍した家臣たちの記録などを元にしており、その信頼性は高いとされる。そこに「内膳が先鋒」とあるのは、信頼して良いのではなかろうか。ウソを書いても何も得にならないからだ。
三成の関係者として毛利輝元の茶会に出席した確実な「存在の証明」がある内膳が、関ヶ原の戦いにも参加したという「ほぼ確実な情報」。これによって、島津家の史料の内容が俄然重要になってくる。もう一度『義弘公御家譜』を見てみよう。
①内膳らを先鋒とする石田勢は、三成本陣が「道路の北」に布陣している。
②そこから「一町半」離れた場所に、島津勢の先鋒、島津豊久隊が居る。
③さらに藤川を越えて「一町」を隔て、小関の南巽に向かっている島津本隊の義弘本陣がある。
①の「道路」については、関ヶ原一帯の場合東西に走る東山道(中山道)、そこから北に分岐する北国街道(北国脇往還)、南に分岐する伊勢街道がある。
②の「一町半」、③の「一町」は、そのまま考えればそれぞれ160メートルあまり、110メートル弱。
従来の定説では石田三成は笹尾山に陣を置き、その南800メートルほどの、現・神明神社周辺で、豊久はその南に布陣していた、となっている。
ところが、島津家の史料では少し様子が違う。問題は義弘が藤川(藤古川)の西岸に陣を布いたことになっている点だ。藤川は関ヶ原を北西から南東に向けて、小西行長の陣所跡という北天満山・宇喜多秀家の南天満山の裏(西)側を流れ下っているわけで、これが本当なら義弘は山中あたりに布陣していなければおかしい。
だが、本文では義弘が小関の南南東に向いているとあるのだから、物理的に藤川西岸への布陣は不可能だ。ということは、藤川は誤りで小関の南を東南流する梨木川を指しているのだろう。
であれば、義弘は北天満川の北麓・池寺池のさらに北側に陣を置き、小関に先鋒の豊久隊の陣が無ければおかしい。一町、一町半という距離は、この場合実際の2分の1程度になるが、それぞれの部隊の最前衛・最後衛の兵の距離と考えると、それほど不自然ではない。
最近、白峰旬氏(近世城郭学)が主張される「当時の一次史料には『山中』という地名(字名としての山中。城山の東麓で、北側に大谷吉継の墓がある)が用いられており、関ヶ原合戦は通説より西の山中を中心におこなわれた」という説がメディアなどでよく紹介されている。また、つい先日は千田義博氏(城郭考古学)が「西軍が修築した『玉城』跡を発見した、とテレビで説明されていた。この玉城は山中の西、現在の城山の山頂にあり、松尾山にあった松尾新城より14メートル高度が高い。非常におもしろい話ではあるが、当時この一帯は「関ヶ原」というよりも山中宿という宿場で世間に知られている。たとえば『信長公記』にも「美濃国と近江の境に山中と云ふ所あり」と書かれた箇所があるし、一般の認識としてはこのあたりは「山中宿」「山中町」と呼ばれていたから、それが一次史料に出てくるのはある意味当たり前だろう。
島津家の史料もそうだが、この問題はまだまだ議論の余地が残っている。