豊臣秀吉のボーナス査定
季節と時節でつづる戦国おりおり第455回
冬のボーナスもなかなか厳しいご時世ですが、今から431年前の天正17年11月(1589年12月)にも、豊臣秀吉による「ボーナス査定」がありました。
その頃、秀吉は畿内の各地で検地を実行していましたが、この日、京の洛中でも「縄を以てこれを打つ」(『日用集 前田本』)と、上京・下京での寺領などの検地が開始されています。
伊賀でも検地は実行されました。
『多聞院日記』の11月25日条に「伊賀に於いて筒井より今度一万石フニタシ」とありますが、フニタシは原本ではフミダシで、活字翻刻時に誤ったものと思われます。
フミダシとは「踏み出し」で、これは検地時に摘発された隠し田などの計上や、厳密な測量と収穫予想に基づく石高のアップ、つまり「増分」です。
伊賀でもこれによって1万石のアップがあったわけですが、のち慶長3年の検地による伊賀の石高が10万石ですから、これをそのまま天正17年時点に持ってくれば実に11%ものアップです。
で、問題は、この踏み出しによる1万石の増分が「上様より下さる内、二千五百石布施へ、千石十新へ、千石井戸十郎へ遣わされおわんぬ」と、秀吉からの指示で2,500石を布施氏へ、1,000石ずつを十市新二朗藤政と井戸十郎覚弘へ、とその家臣団に分配された事です。
いわば、検地というプロジェクト成功に伴う臨時特別ボーナスの支給ですね。
この直後の27日、同日記によれば「伊賀内輪申し事、浅野弾正意見にて調いおわんぬ」と、筒井家中で起こったもめ事を浅野長政が調停したという噂が記され、さらにその2日後以降、筒井氏の改易の噂がレポートされます。
詳しいことは判りませんが、検地の実施とそれによって得られた増分の配分をめぐって、負担が増える事になる者と分配によっておいしい思いをする事ができる者との間に深刻な対立が発生したのではないでしょうか。
しかし、秀吉の指図によって分配方法が決められたのに、それでもめ事になれば改易、というのも無茶な話で、これは一旦沙汰止みとなり、定次は関ヶ原の戦い後まではなんとか伊賀を領し続ける事ができたのでした。
ボーナスを貰うのも一概に喜べない、なんとも薄ら寒い話ではありますね。