「中華民国の忘れられた革命家、晴れ間の時代の異色の天皇」1925(大正14)年、1926(大正15)年【連載:死の百年史1921-2020】第4回(宝泉薫)
連載:死の百年史1921-2020 (作家・宝泉薫)
■1926(大正15)年
治世9年、悲運の帝が女官を困らせた「趣味」
大正天皇(享年47)
大正の世は、15年12月25日に幕をおろした。天皇の崩御にともなうものだが、その様相は明治とも昭和とも異なる。原敬の項(「死の百年史」第2回)で述べたように、天皇の健康不安からこの5年前に皇太子(のちの昭和天皇)が摂政に就任。事実上の生前退位のようなことが行なわれていたからだ。
それもあって、大正天皇は歴史的にやや不遇である。たしかに病弱ではあったものの、その実績は過小評価されている。実質9年余の在位期間を懸命に務めただけでなく、皇太子時代には頻繁な地方行啓で国民に親しまれた。明治40(1907)年には、伊藤博文の要請で訪韓。韓国併合への足固めに貢献している。
にもかかわらず、ともすれば暗愚だったとする見方さえあるのは、表舞台を去るにあたって公表された病名によるところも大きい。生後まもなく罹患して心身の発育遅滞の原因にもなった「脳膜炎」が負の印象をもたらしたのである。また、帝国議会の開院式で「詔書を巻いて議員席を見下ろした」という遠眼鏡事件については当時「小学生の間でも話題になっていた」(丸山眞男)という。
実際、戦後に出版された女官の回想録には、明治天皇と比べ、どこか頼りないエピソードも紹介されている。臣下の言上が長くなると退屈して席を立つので侍従が上着を押さえつけていたとか、輿のなかでひょこひょこ動くので担ぎ手を困らせたとか、好みの女性の写真を収集するのが趣味だった、などなど。この女官は容貌にも優れ、かなり気に入られていたものの、それをありがた迷惑にも感じていたようで、
「写真をお集めになるのは、一種の癖とは思っておりましたが、何か晴れきらぬ心は自分ながらどうしようもありませんでした」
と、振り返っている。
なんにせよ、国家元首の健康状態がいろいろと取り沙汰されるのはやむをえない。これについては、歴史学者のF・R・ディキンソンが興味深い指摘をしている。ダーウィンの進化論が世界的に流行したおかげで、壮健な民族は繁栄し、病弱な民族は衰退するという考え方が説得力を持っていたというのだ。そのため、皇后にも学校を皆勤したという丈夫な皇族女性が選ばれた。
この皇后とのあいだに4人の男子が誕生。皇統の継続という責務も果たした。明治天皇が皇后とのあいだに子供を授からなかったことに対し、こちらは側室を置く必要がなく、一夫一妻のかたちを終生貫くことに。夫妻での公務も多く、これも戦後の皇室のあり方を先取りすることとなった。
5年もの闘病の甲斐なく、心臓麻痺により47歳で崩御となったのは痛ましいが、その実質9年余の治世は日本が比較的穏やかな時期でもあった。大正デモクラシーや大正ロマンといった言葉が示すように、よくも悪くも嵐のようだった明治や昭和のあいだにのぞいた晴れ間のような趣きもある。そんな印象とともに、この悲運の天皇を偲ぶのもよいのではなかろうか。
(宝泉薫 作家・芸能評論家)
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