「志村けんと岡江久美子、他人事だったコロナ観を変えた隣人の死」2020(令和2)年その1【連載:死の百年史1921-2020】第5回(宝泉薫)
連載:死の百年史1921-2020 (作家・宝泉薫)
かと思えば、時代に取り残されたような死もある。8月に小脳出血で亡くなっていたことが4ヶ月後に報じられた宅八郎(享年57)などは、そうかもしれない。90年代、おたく評論家としてブレイク。筆名かつ芸名といい、当時のおたくを戯画化したようないでたちと言動といい、その奇抜さで一世を風靡した。
ちなみに、彼を発掘した中森明夫は「おたく」という言葉の命名者でもある。80年代半ば、中森が「新人類」文化人トリオのひとりとして世に出たあと、宅は石丸元章や菅付雅伸とともに「新新人類」として売り出された。のちに石丸はクスリの体験ルポ、菅付は「結婚しないかもしれない症候群」(谷村志穂)の編集などで知られることになる。
そんなお祭り騒ぎみたいな様子を筆者はわりと近くで、興味深く眺めていた。中森が発行人をしていた雑誌「東京おとなクラブ」でまだ本名だった宅と仕事をともにしたこともある。当時は地味な雰囲気で、のちのパフォーマンスも、論客たちとのケンカも想像できなかったため、わずか数年後の派手な活躍には驚かされたものだ。
その驚きは、家族にとってはなおさらだった。弟は「ENCOUNT」のインタビューで、宅が一種の気持ち悪さを売りにしていたことから、肩身の狭い思いも味わったと明かしている。また、晩年に関しては、宅八郎以外の名義で執筆活動をしていたらしいとしたうえで「最近の世の中は、ネットで何でも情報が得られるから、お金を払って文章を読んでくれる人が減った。商売あがったり、だよ」とこぼしていた、とも。なお、その死を4ヶ月後に公表した理由については、
「家族としては兄が最後にテレビなどに出ていた頃からもう10年以上たつし、お騒がせもいろいろしたので、亡くなったことをお知らせしたら、また兄のことを悪く書かれるんじゃないか、とか、そもそもお知らせするほどのことなのか、わからなかったからです」
と、語った。
実際、宅の死が報じられると、ネットでは「おたくに便乗して世に出た」「カッコ悪いイメージを広めた」といった声も出たが、弟は「こんなに多くの方が嘆いてくださるとは」と喜びも口にしている。