毛利家の三つ星家紋の由来は、「三本の矢」ではなかった!
発売中!『歴史人』2月号の特集は「戦国武将の家紋の謎」
西国の雄、毛利元就の家紋といえば、一の字に三つの丸、いわゆる「長門三つ星」である。「矢も三本集まれば折れない」という三本の矢の有名なエピソードがその由来だと思われているが、真相はどうであろうか。歴史人2月号では、歴史研究家の小和田泰経氏が戦国武将の家紋について解説してくれている。その中から、毛利家の家紋について紹介しよう。
「毛利元就の家紋は、一の字の下に三個の円を配した“一文字三つ星”が有名である。これは、いわゆる三矢の教えを紋様にしたものといわれることもあるが、まったくの俗説にすぎない。元就の時代には、すでに家紋として用いられていたからである。それに、亡くなる直前、嫡男の隆元ら三人の子を枕元に呼び寄せ、一本の矢では軽く折れるが三本の矢を束ねたら容易に折ることができないと諭したという逸話そのものが、すでに隆元が早世していたことからして事実ではない。ただ、元就自身は、一族が結束すべきことを遺言状で述べており、三矢の教えは、そのようなことをヒントにして創作したものであろう」
実は、三本の矢のエピソードよりも、三つ星の家紋の方が先にあったらしい。
「“一文字三つ星”が何を意味しているのかについては、記録には残されていないため、わからない。ただし、古来、日本には星に対する信仰があり、星を円として描き、崇拝の対象としていた。とくに、今で言うオリオン座の中央に並ぶ三つの星は、大将軍星と左右の将軍星と呼ばれて信仰の対象となっており、この三つ星が“一文字三つ星”になったと考えられている。
また、その紋様は、毛利氏の本姓である大江氏とも関係していたらしい。貴族であった大江氏は、平安時代の大江本主の代に、平城天皇の第一皇子阿保親王の侍女を下げ渡されて妻とした。しかし、そのときすでに侍女は身ごもっており、生まれた子は、親王の落胤であったという。親王の最高位を一品といい、“一文字三つ星”は、この一品という字の暗喩だともいう」
関ヶ原合戦で敗れた毛利氏は長門37万石に削減されてしまい、以来「長門三つ星」と呼ばれるようになったのだ。