「のぼうの城」でおなじみ、関東七名城がひとつ「忍城」と成田氏の歴史
外川淳の「城の搦め手」第48回
小説、映画「のぼうの城」で全国区の知名度になった忍城。別名「忍の浮き城」とも称され、川越城 、前橋城 、金山城 、唐沢山城 、宇都宮城 、太田城とともに「関東七名城」に数えられる屈指の要衝だった。成田氏が忍城を築いたのは、15世紀後半と伝えられている。
忍城主の成田氏は、関東管領山内上杉氏仕え、主家の衰退にともない、上杉謙信の配下に属した時期もあった。だが、1561 (永禄4)年閏3月、鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の境内で成田家の当主である長泰が謙信に凌辱されるという大事件が勃発する。成田氏は、先祖代々、大将とは共に下馬してから挨拶を交わすことを認められていたのだが、そのことを知らない謙信は、下馬しない長泰を引きずり下ろしたのだ。
長泰は、謙信の仕打ちを憎み、鎌倉から忍へ引き返して、上杉陣営から離脱し、北条氏に服属することを宣言。北条氏は、武蔵中部の覇権確立のためには成田氏の協力は不可欠とみなし、関東の諸将の中でも、一族に匹敵するほど厚遇している。
成田長泰の死後、成田家を相続した氏長は、豊臣の大軍が関東へと迫ると、主力部隊を率いて小田原城に籠城。その留守を任されたのが氏長の叔父にあたる泰季と、その子長親だった。
忍城に残された兵力は500名にも満たなかったことから、父子は、領内から農民や町人から女性や子供までをも城内に引き入れた。すると、3000名もの領民たちは常日ごろから領民たちに心を配る「のぼう様」こと長親のために馳せ参じたという。本来であれば、このような非戦闘要員たちは足手まといになるところ、のぼう様のため、忍城を兵士たちとともに一致団結して守ることになる。
(次回に続く)