丹波でめぐる明智光秀ゆかりの地① 丹波篠山城の壱
季節と時節でつづる戦国おりおり第457回
新型コロナウイルス感染予防対策として再度1都11府県に対し緊急事態宣言が発令され、筆者も現在不要不急の外出を回避せざるを得ない状況です。ということで、なかなか史跡めぐりに出かけることもままならないわけですが、ここはひたすら我慢しかありません。また自由にいつでもどこにでもどんな交通手段でも行けるようになるまで、頑張りましょう。
というわけで、今回はストックからの紹介。昨年の秋の連休直前に訪れた丹波国編です。現在は兵庫県の北東部、大阪府の北部、それに京都府の中部と分かれている丹波国はかつて律令時代、大国の次の「上国」にランキングされたぐらいで、当時から比較的豊かな国です。山陽と山陰を結び、中国と近畿を結ぶ。山あいの国ながら、その陸上交通のキー的ポジションと山の幸に恵まれた土地柄のためか、戦国時代に成立したとされる『人国記』には住人は「惰弱」で連帯感が弱く山っ気がありセレブ願望が強い、などとあまり良くは評価されていません。
しかしまさにその戦国時代、丹波の国衆たちは衰えていく室町幕府に忠節を尽くし運命を共にしていきました。人の評価や感想など、当てにならないものです。
そんな丹波国における今回の行程の起点は、こちら。
ドン。
丹波篠山城跡の北側、大手口に設けられていた馬出跡です。大手門の虎口を防御するために外堀から北に張り出す形で方形の馬出が設けられ、独立した水堀を正面と左右にめぐらせていました。作りとしては東・南の馬出も同じ構造で、外堀沿いの左右に門を配して三の丸、橋、馬出の三方向から侵入しようとする敵を攻撃できる仕組みです。たぶんおそらく、この左右の門の内側には両袖壁と呼ばれる土塁か石垣塀もあって敵の視界をさえぎり味方の身を隠す機能を果たしていたことでしょう。
現状、この土塁跡が遺された遺構ということになります。
奥に写っている建物は、丹波篠山市立田園交響ホール。さらにその奥は市役所です。