家康の水攻め恐怖症
季節と時節でつづる戦国おりおり第459回
今から411年前の慶長15年1月9日(現在の暦で1610年2月2日)、徳川家康が名古屋築城計画を発令しました。
『徳川実紀』に「尾州名古屋に新城築かるべしと、去年より使番牧助右衛門長勝を監使として経営せしめられしが、いよいよこの二月より不日に構造すべしと仰せ付けらる」とあります。
この日、家康は駿府城から田中(現在の静岡県藤枝市の一部)に鷹狩りに出かけ、そのまま名古屋へ赴いてこの築城計画を発令したのです。
前年11月16日に普請奉行を命じられた牧助右衛門が名古屋へ派遣され、「彼の地を地割り・広狭を縄張り」(『当代記』)と、その土地状況を調査し区画して建設計画を立てたのですが、なぜ名古屋に白羽の矢が立てられたかというと、清洲は洪水の被害を受けやすく、合戦となると水攻めを受ける可能性が高い、との配慮だったそうです。
まぁ、他にも土地の発展性とか、いろいろ理由はあったのでしょうけど。
筆者はかつて家康が関ヶ原合戦で大垣城を水攻めにしようと考え、それを察知した三成が大垣から関ヶ原に移動した、という様な事を書いた事がありますが、家康はどうも水攻めには敏感だったようですね。
彼の仮想敵だった豊臣家は、亡き秀吉が水攻めの名手でしたから、余計にそういう心配をしたのかも知れません。