昭和30年代、全住戸にお風呂を設置していた団地にみんな憧れた
我が家の風呂の戦後史①
◆家庭に風呂が広まったのは昭和30年代以降のこと
高い天井にカコーンと桶の音が響く。父親の広い背中を洗うと、お返しにこすってくれる背中がくすぐったかった。そんな、親子で入る広い広い銭湯もよかったが、家に小さな風呂ができてからというもの、父と触れ合うあの楽しみはお終いになった――。
戦後、長い間、都会の普通の家には、ほとんど内風呂がなかった。私事だが、母方の祖父は戦前、東京・目黒で風呂釜を作っていたという。母は遠い記憶をたどる、「あか(銅)を叩いて、ハンダでロウ付けしてたわねぇ」。
燃料は、煙の出ない無煙炭や木炭などの粉末を固めて、縦に穴を開けた煉炭だったという。
「浴槽とお釜の間には桟があって、煙突が出てて…」。
東京・小平市にあるガスミュージアムの副館長で学芸員の高橋豊さんは風呂釜に詳しい。
「昭和6年(1931)に東京ガスが“早沸釜(はやわきがま)”を開発し、それま
での炭や薪に比べ、湯沸かし時間はぐっと短くなりました」。
釜は銅製で、鋳物のガスバーナーを差し込んで湯を沸かす方式だった。差込口が吸気孔になっていて、排気は上に出てゆく仕組み。ガス会社だから、木やタイルの浴槽は作っていなかった。町の風呂屋などが風呂桶を設置した。
「釜の上部には“上がり湯”のためのタンクがあって、小さな蓋が付いていました。今ならシャワーを浴びますが、むかしは入浴後に上がり湯を浴びたのです。お湯が減ったら栓を抜いて、上がり湯を浴槽に足すこともできました」。
昭和8年(1933)当時の型録(カタログ)を見ると、浴槽とセットにした商品が載っている。
だが都会の家庭に“家風呂”が普及し始めるのは、昭和30年代後半のこと。それまで一般家庭では寝間を片付けて卓袱台(ちゃぶだい)で食事をし、入浴は銭湯に通っていた。
昭和30年に発足した日本住宅公団は、耐火構造の大規模な「団地」を各地で建設した。標準的な間取りは6畳、4畳半にダイニングキッチンの2DKで、水洗トイレ、人造石研ぎ出しの流し台があり、そして全住戸に浴室が設けられた。
花王ミュージアム(東京・墨田区)には当時の団地の部屋を実物で再現したコーナーがある。以後、一般住宅にも浴室を新設する家が増えていった。
〈雑誌『一個人』2018年2月号より構成〉