北海道の近代を開いた最古の鉄道 国鉄手宮線【前編】
ぶらり大人の廃線旅 第23回
■道内随一の商港・小樽と炭鉱を結ぶ鉄道
明治30年代には函館から少しずつ延伸を続けてきた北海道鉄道(現函館本線)が、明治38年(1905)8月1日に小樽駅(現南小樽)でこの幌内鉄道に接続した。それをもって小樽(現南小樽)駅から手宮駅に至る区間は支線に位置付けられている。明治42年(1909)には全国の国有鉄道に線名が付与されたが、その時にこの支線は手宮線と命名されている。長らく商港都市・小樽の臨港線として活躍し、明治末には複線化も行われた同線ではあるが、戦後は乗客数の減少で旅客輸送を昭和37年(1962)に廃止、さらに鉄道貨物の衰退に伴って同60年には全線が廃止された。
かつての起点・南小樽駅から北の手宮へ向けて歩き始めよう。終点まで2.8キロと短いので観光のついでに散歩できる気軽さがある。南小樽駅は開業時には地元の町名をとって開運町(かいうんちょう)と称したが、なぜか開業翌年の明治14年(1881)には住吉と改称、さらに同33年には小樽駅になった。なぜか小樽を名乗った駅はこれが初めてである。
現在の小樽駅は函館から来た北海道鉄道が開業した小樽中央駅(明治36年開業)が翌年に高島に変わり、さらに明治38年(1905)に初代駅名をひっくり返して中央小樽となっていた。当時はまだ函館方面への北海道鉄道と線路が繋がっておらず、同38年にようやく同鉄道がこちらの小樽駅(現南小樽)に接続されている。現在のように中央小樽が小樽に、小樽が南小樽に改められたのは大正9年(1920)のことだ。なぜこれほど改称を重ねたのかはわからない。
今ではセブンイレブンの店舗が大半を占めている南小樽の駅舎を出て函館本線の線路に沿って北へ歩くと、坂を下って赤い橋桁が架けられた橋梁に出る。ここは現函館本線の複線の北側に手宮線のレールも橋桁ごと残っていた。橋脚は開業以来であるか不明ながら煉瓦積みなので相当の長い歴史を積み重ねていることは確かだろう。煉瓦は長手と小口を交互に積んだフランス積みだ。
しばらくは現役線の脇をレールが途切れつつも草に埋もれた廃線跡が続くが、その傍らを歩いていると、切り通しを抜けた後から遊歩道が始まった。市が建てた「手宮線跡地」の案内標柱があって、誰でも歩けるようになっている。要所に設けられた手宮線に関する案内板がその歴史を教えてくれるのは嬉しい。これによれば、開業の1か月前の明治13年(1880)10月24日にアメリカから輸入された「弁慶号」が試運転を行ったという。開業当時の札幌までの途中駅は開運町と銭函のわずか2駅だけであった。