世界のどこかに咲く植物を、あなたの隣に。
連載:植物採集家の七日間
ここではないどこかに行きたい。自分ではない誰かになりたい。
憧れや夢という非現実を見ることは、不思議と現実を強く生きる力を与えてくれるものです。
植物採集家・古長谷莉花が「旅で出会った植物」と「人間の叡智」をお届けします。
【第1回】植物採集家について。
– Blooming Plants Somewhere in the World are always beside you. –
■Desire path 都会のけもの道を歩く
都会にも、目には見えないけもの道がたくさんあると思う。コンクリートで舗装された味気ないものでも、不思議と心惹かれ、足を踏み入れたくなる道。その先には、居心地の良さで時が経つのを忘れる店、笑顔が忘れられない人、衝動買いを止められない物が待っている。けもの道には、欲望の残り香があるのかもしれない。その残香に吸い寄せられている気がしている。
私はけもの道を歩き、植物を採集し、訪れたい場所をつくっている。大自然の中に大都会、その中間地点も行動範囲であるし、国内外を行き来する。
【植物採集家の7日間】は、植物採集家の旅の記録。すぐにでも植物採集の世界に連れて行って差し上げたいが、私の「植物採集」は文字通りの内容ではないかもしれない。ワイルドにトレッキングシューズを履いて山に暮らすような冒険家ではないし、日々白衣を着て顕微鏡を覗き、洋書を読みふける研究者でもない。まずは、植物で世界を少しずつ変える植物採集家から見る世界をご紹介したい。
■木を彫る女子高生 根っからの蒐集癖は伊豆の国から
私が植物に興味を持ったのは、「中途半端」な田舎に生まれた時からだ。原体験は静岡の自然だろう。自宅の前からは毎日美しい富士山を眺めることができ、長い水脈を辿ってきた湧水がベースとなる水道水は美味しい。田んぼに囲まれた我が家では、夏になるとカエルの合唱でテレビの音が聞こえない。柿田川湧水の水の冷たさにはしゃぎ、誕生日はいつも近くの海で潮干狩りだった。ビーチコーミングやシーグラスなんておしゃれな言葉はなかったけれど、綺麗な石や木の実やら、何でもかんでも集めていた。
りかちゃん人形みたいになって欲しいと姉が付けた名前とは真逆で、私は王子様になりたかった。伸ばしていた髪を自分でジャキンと切った時の落胆を、母はまだ忘れられないらしい。女の子でいては、夢が叶わないと思っていたのだろう。「中途半端」な田舎は美しくて豊かで、窮屈だった。
田舎と言っても「中途半端」だから大自然に逃げる事もできないし、都会の人混みに紛れる事もできない。小さな町では誰が何をしているか筒抜けだし、学校も地域行事もみんな一緒がお決まりのルール。私は気が合わない人と時間をともにするのが本当に苦手で、小学校の成績表は「誰とでも仲良くする」がいつも△だった。空気を読みすぎるのかもしれないし、全く読めないのかもしれないが、できないものはできなかった。
10歳の頃には既に建築家を志していた。なにかを作っている時だけは現実から解放されたし、一生何かを作り続けていくために一番大きなものをと考えたら建築だった。私にとって「目標を持つ」ことは現実逃避だった。
中学二年生の時には「ここから飛び出すために、方言を直そう」と誓って、静岡弁がでないように特訓をしていた。高校受験には失敗したが、第二志望の学校では書道部の仲間ができた。合宿で2泊3日ひたすら文字を書くことに没頭できる愉快な人たちのおかげで、学生らしい生活をおくれたから結果オーライだと思う。蘭亭序がお気に入りで大体ここから臨書していた。夏目漱石をテーマにした団体戦では一人だけ1メートルを超える木に「我輩は猫である」を彫り続けた。対象は徐々に変わっていったが、幼少期から高校生まで、「熱中できるもの」をハンティングし、その世界を蒐集していった。