五輪金メダリスト船木和喜が「新宿のビルで上から下まで飛び込んだ」理由
Q1・1998年の長野オリンピック後、何故独立しようと考えたのですか?
■海外選手に言われた「日本の環境は甘い」
――当時所属していたスポーツ用品メーカーのデサントを離れました。
船木 企業に所属する日本の社会人選手は(海外と比べると)恵まれていると言えます。練習、試合がメーンで日々を過ごせて、なおかつ結果がどうであってもサラリーをもらうことができますから。一方で海外の選手は結果が出ないとプロになれないし、結果が出ないとスポンサーもつかないので収入がない。ただ結果を出すと、全然違ってきます。オリンピックでメダルを獲得したり、ワールドカップで勝ったらスポンサー収入もグッと増える。とはいえ人生変えるだけの報酬を得る選手というのはほんのひと握りしかいない。
長野オリンピックが終わってから、『日本のオリンピックで、日本人選手の最高の環境の中でメダルを獲れるのは当たり前だ』と周りから言われたことがあって、じゃあ海外の選手と同じスタイルで挑戦してみようって。オリンピックが終わって1年ぐらい掛かって、次の目標に踏み出すことができたんです。
――退社するデサントが個人スポンサーの第1号となりました。
船木 デサントの会長、社長には世界選手権(99年2月)で『メダルを獲ったら背中を押してください』とお願いをして、了承を得ました。そして個人ノーマルヒルで金メダル、団体で銀メダルを獲得したわけです。スポンサー料の交渉もやらせてもらいましたし、会社には背中を押していただきました。
――日本初のプロジャンパーになったたわけですが、スポンサー集めは順調だったのでしょうか?
船木 難しかったですね。最初は1年契約で3社でした。結果的にこれまでの貯蓄を切り崩すことになりました。まあ、デサントにいたときはほとんどお金を使っていませんでしたから。遊ぶと言っても、釣りとかお金が掛からいものばかりだったので。
ずっとジャンプしかやってきていないし、自分の会社を立ち上げると言ってもそのやり方すら分からない。古本屋に行って『会社のつくり方』っていう本を買ったところから始まっていますから(笑)。やっぱりお金が集まらないと運営できないし、飯も食えない。人に頭を下げることとか今までなかったんですけど、新宿を歩き回ってビルの上から下まで飛び込みで営業もやりました。『船木と言います。僕の夢に投資してくれませんか』と。まあほとんど社長さんとかには会えませんでしたね。面白がって会ってくれる人もいましたけど、『後で連絡します』と言われてそれっきりというのも多かったですね。
――スポンサー集めと競技を両立していなかければなりません。
船木 最初の5年間は、自分の足場を固めるだけで精いっぱいでした。スポンサー集めは大変でしたけど、一方でいろんな人が周りに集まってきました。どこまでお願いしていい人なのか、どこまで本音を言っていい人なのか、そういった選別も難しかった。良さそうな話を持ってきてもらえるけど、お金を出さなきゃいけないのは自分だったりとか。そういった人付き合いの中で、叱ってくれる人、ダメ出しする人を信頼して、相談するようにはなりました。
冬と夏は競技があって、春と秋は充電期間とトレーニング期間です。最初の5年間は試合を削って、スポンサー活動をやったこともありました。結果は維持していかなきゃいけないのに、逆に下がってしまうというもどかしさがありましたね。競技にもっと目を向けて、仕事を選んでというようになったのは5年経ってからでした。
自分で自分を評価するというのは凄く難しい。何故って、自分に値段をつけなきゃいけない。その値段に対する根拠を持たなければならないし、持つためには練習しかないので。これだけ努力していますからというのが、一つの根拠になる。過去の成績なんて、関係ないんです。