不穏な時代の「価値ある読書」こそ人間を精神から鍛えなおしてくれる【福田和也】
“知の怪物”が語る「生きる感性と才覚の磨き方」
■想像をすることは、ある種の能力である
書物、この貧しいもの。
だが、書物にしか、小説にしかないことがある。本にしかない豊かさが、自由があるのだ。
小説の豊かさとは、以下のようなものである。
例えば、小説のなかであなたが、「青い花」という言葉を読んだとしよう。
その時にあなたは、どんな花を思い浮かべるか。
それは、人によって千差万別に違いない。
その違い、つまり自ら思い浮かべ想像することに発する違いが、小説の豊かさをなしている。
映画にも、ゲームにも、あるいは漫画にも、花がでてくる。
だが、そこではすでに花は、一つの映像として固定されて、あなたに提供されるのだ。
たしかに、同じイメージからであっても、抱く印象や感情は千差万別だろう。
にもかかわらず、その姿自体は、あらかじめ作られたものとして、あなたに提供されるのだ。
小説において、花のイメージはあなたに委ねられている。
それこそが、小説の自由であり、可能性だ。
たしかに、小説のなかでは、あなたはゲームでのように、「自由」に世界のなかを行動することができないかもしれない。
しかし小説においては、あなたはその世界自体のあり様を、光の具合を、風の匂いを、樹々の佇まいを想起することができる。それこそが、本当の「自由」ではないだろうか。作りつけの世界を、勝手に、しかし実は限定された範囲のなかで動き回らせてもらう自由と、世界自体を創造する自由。
たしかに、今、この自由、つまり世界全体を想起する自由は、評判が悪い。
一々、想起をすること、感じ取ることは面倒くさい。
それ以前に、そうした想像をすることは、ある種の能力である。
「花」という言葉から、何が思い浮かぶか、によってあなたが生きてきた人生の幅と重さが問われるのだ。あなたがどのような人生を歩いてきたのか、つまりは親や教師やテレビといったメディアが提供してくれる範囲で受け身の人生を歩いてきたのか、自ら認識し、感じ取り、体験し、語る生き方をしてきたのか。どれだけたくさんの人と会い、あるいは場所に行ったのか。
そのような能力を磨くのは面倒くさい。自分で考えたり、想起したりしないですむ様に、圧倒的な画像や、音楽や、操作感覚で圧倒してほしい。
あなたが、そう考えるのも無理はない。それが当世流行の考え方であるからだ。
しかし、それは「面白い」かもしれないが、つまらない考え方だ。貧しくて、痩せていて、意欲に欠けた、恐ろしく退屈な。
なぜなら、生きることの面白さ、その堆積がすべてこの自由に、つまりは想起する自由にかかってくるからだ。
昔、読んだ本を読み返した時に、まったく違う印象を得ることがある。それはその間、前に本を読んだ時と現在の間に生きた体験がそのまま、想起の豊かさにつながっているからだ。前に「花」という言葉に反応したのとは違う、より多くのイメージがその間の体験によって増えているからだ。だから、小説は、人によって違うだけでなく、同じ人間にとっても、その蓄積や精神の活発さによって違う顔を見せる。
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◎中瀬ゆかり氏 (新潮社出版部部長)
「刃物のような批評眼、圧死するほどの知の埋蔵量。
彼の登場は文壇的“事件"であり、圧倒的“天才"かつ“天災"であった。
これほどの『知の怪物』に伴走できたことは編集者人生の誉れである。」