抑うつ状態の自分を救ってくれる「かけがえのない本」とは?【福田和也の読書論】
“知の怪物”が語る「生きる感性と才覚の磨き方」
■ホームレスと哲学書
しかし、前にも申しあげましたが、異常なほど、皆さん、そのあたりには無防備ですね。ヘアスタイルから、洋服、靴まで、隙なく整え、アレンジをする人たちが、その内面を象徴する本については、まったく無頓着であることには驚きます。平気で、天国のなんやらとか、世界のまんなかでどうしたとか、イヌがなんのという本をあげる。その点からすれば、かの石庭の君などは、意識的であることは間違いありません。
いや、別に、天国がどうした、というような本を読んでもいいし、好きだといっても構わないわけです。ただ、それが、他者から見てどういう意味にとられるか、ということについて意識したうえで、語るならばいいのです。でも、このあたり大変無頓着ですよね、皆さんは。一足の靴、一つのカバンを持つことが、どういう意味を持つのかという点については、非常に意識的であり、時に戦略的ですらある人が、本についてはまったく意識がない。汚れた下着を平気で見せるようなことをしていて、何の痛痒(つうよう)も感じていない。別に、見せたいのなら、何を見せてもいいのです。ただ、それと知らず、はみ出すように見えてしまうことが、恥ずかしいといっているのです。
こういう油断というのは、なかなか怖いもので、かなり意識的だと自認している人たちにも起こるわけですね。
しばらく前に、ホームレスの住居の写真を集めた写真集が出版されて、話題を呼びました。そのなかでも特に注目を浴びたのが、自らの手で、アパートのように室内を整えたホームレスで、彼は、その本棚にミシェル・フーコー以下、難解な哲学書をずらりと揃えていたわけです。その写真を見て、皆さん喜んでしまった。ホームレスなのに、こんな難しい本を読んでいる、エライ、オモシロイというわけです。
まあ、もちろん、気持ちはよくわかります。でも、これは、結構恥ずかしいことですよね、よくよく考えると。
まずは、難しい本を読むというのが、大変なことだ、カッコいいことなのだ、ということをはしなくも認めている。
こういう形で、喜んでしまった人たちのなかには、読書についてのダンディズムがある人たちもいるのでしょう。同時に、この文脈とまったく関係なく訊ねてみれば、むしろ、ああいう本を読むのはまったくたいしたことないとか、難しい本を有難がるくらいカッコ悪いことはない、というような答えも必ず返ってくると思うのです。
にもかかわらず、ホームレスと哲学書という取り合わせを前にすると、つい「難しい本を読むっていうのはたいしたものだ」という本音が覗いてしまうわけで、これは怖いことです。
さらに難しいのは、よく考えてみれば、ホームレスと哲学書というのが、意外な組み合わせなのかどうかよくわからない、というか何の根拠もないのですね。つきつめて考えると、ホームレスは難しい本を読まないという、彼の知的能力にたいする、かなり強い偏見が含まれているといえないこともない。
だいいち、そもそもホームレスと哲学というものは、きわめて近いものだという見方も成り立つわけですから。たとえば、フリードリヒ・ニーチェのような人が現代社会に生きていれば、ホームレスになる確率は、きわめて高い、といえないこともない。哲学というのは、尋常常識の範囲を大きく踏み出して考えるという営みですから、いずれにしろアウトサイダーにならざるを得ない。価値観における、思想におけるアウトサイダーならばまだいいのですけれども、それが経済的アウトサイダーになり、法的アウトサイダーになったりすると社会の外側に放逐されてしまうという危険が、当然出てくるわけですから。
そのように考えてみれば、蔵書を見て素直に反応してしまうというのは、かなり危険なことであって、この辺、私も肝に銘ずべきところでしょう。
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文藝評論家・福田和也の名エッセイ・批評を初選集
◆第一部「なぜ本を読むのか」
◆第二部「批評とは何か」
◆第三部「乱世を生きる」
総頁832頁の【完全保存版】
◎中瀬ゆかり氏 (新潮社出版部部長)
「刃物のような批評眼、圧死するほどの知の埋蔵量。
彼の登場は文壇的“事件"であり、圧倒的“天才"かつ“天災"であった。
これほどの『知の怪物』に伴走できたことは編集者人生の誉れである。」