「読書離れ」を嘆くも良し。「読書」の享楽は、この世に二つとない「最も危険な快楽」であり人を狂わせるのだから【福田和也】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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「読書離れ」を嘆くも良し。「読書」の享楽は、この世に二つとない「最も危険な快楽」であり人を狂わせるのだから【福田和也】

“知の怪物”が語る「生きる感性と才覚の磨き方」

写真:PIXTA

 

■どういう姿勢で、書物にたいし、接するか

 

 今回の『福田和也コレクション1』で、お伝えしたいことはたくさんありますが、そのなかでもっとも大事なものは、いかに書物にたいするかということ。簡単に申しあげれば、書物を前にした時の構え方です。

 構え方、つまりどういう姿勢で、書物にたいし、接するかということ。

 これは、云う迄もないことですが、書物というものに接する時には、背筋をのばして、心しずかに、身を清らかにして向かいなさいということではありません。けれどもまたそのような発想というか、考え方には少なからず、尊重すべきところがあります。

 長らく中国の文化的影響を圧倒的に受けてきたわが国では、読書に対する姿勢もまた、きわめて中華的な伝統の下に置かれてきました。その伝統とは、すなわち読害を行儀作法の上から見るということです。後述しますけれど、これはこれで、たしかに当世風ではないけれど、なかなか大事な考え方、思想であったと思います。

 科挙制度の確立とともに中国では、科挙に合格して皇帝のもとで為政者となる読書階級を、人臣の最上位におき、四書五経からさまざまな史書におよぶ古典籍をひもとくことを人間が地上でなすもっとも高貴かつ重要なものとしてきました。

 読書を至上の行為と考えていたことは、中国の文化の爛熟がどれほど高い水準に達していたか——古代ギリシアから、イスラム教学の完成期にいたるまで、かくも読書が大きな意味をもった文明はないでしょう——ということを今日に知らせてくれます。けれども、その極端に読書を尊重する気風は、読書をその実際の中身、つまりはテキストを読み解き、味わうということよりも、いかにして敬虔に、恭(うやうや)しくテキストにたいするかということに過度なまでに重点を置く文化を生みました。読書の前には、斎戒沐浴(さいかいもくよく)をし、穢(けが)れた事物を遠ざけ、静かな場所で硯(すずり)を膝元に置き、まず蘭竹を墨で描いて落ち着いた後に、書物に三拝した後に帖を開く。まるで、礼拝のような作法が、読書に際して作り上げられていたのです。

 読書が儀式となれば、当然形骸化が進みます。書物が本来もっている、本質的な興奮や喜び、激しさは等閑視され、枯れすぼれてしまい、枝葉末節の語義講釈のみが重要視されるようになります。特に、漢籍を大陸から招来された貴重きわまるものとして、もともと尊重する傾きのあったわが国では、書物を敬い、読書を一種の宗教儀式として見る気風が、極端に発達したのです。江戸期の頃の儒学者や国学者の書物にたいする態度の真剣さ、物々しいとすら云いたくなるような崇拝する心情から、たとえば本居宣長のような、きわわめてすぐれた文献学の業績が生まれるとともに、吉田松陰が育った長州藩の儒家のように、経書を読む時に、虫に刺された痒(かゆ)みに気を散らせただけで、生死に関わるような折檻(せっかん)をうけるような気風を蔓延させました。

 明治維新以来、こうした気風、つまりは読書それ自体よりも行儀を尊重するようなやり方は、強い批判を浴び、また反省を強いられました。第二次世界大戦の後に、あらゆる権威が否定されるようになってからはいよいよ、事大主義の排斥は激しくなりました。

 本などというものは、ただ活字が並んでいるだけのメディアにすぎない。読むということは、このメディアによって個性的な個人であるはずの読者が、それぞれに活字からの刺激によって精神を運動させ、感覚、感情を覚え、論理、情報を理解することにすぎない。だとすれば、読む行為自体は寝っ転がって読もうと、満員電車の中だろうと、テレビ・ゲームの電子音の下であろうと構わないということになります。

 おそらく、こうした考え方が、今日現在の私たちの読書観のもっとも一般的なものでしょう。

 大事なのは、書物、つまりは物としての本ではなく、内容である。読書とはその内容をいかに個々人が自由闊達に受け止めるかといったことであって、その外側の約束事とか作法などというものには、何の意味もないのだ。

 たしかに、そうかもしれません。けれども、そうでいいのでしょうか。

 私には、どうも、ここ百年このかたの日本人は、読書という行為をあまりに抽象的に考えすぎてきたように思われてならないのです。

 抽象的というのは、つまりは、物とか振る舞いと切り離しているということです。

 もちろん、活字というのが、きわめて抽象的な記号であるという事を考えに入れれば、それは当然かもしれない。しかし、あまり抽象的に考えたために、具体的な物や流儀に復讐されているように私には見えるのです。

 復讐とは、こういうことです。お酒のたとえばかりして申し訳ありませんが、いくら高価なワインであろうと、呑み手の感性、感覚さえしっかりしていれば、どんな場所や、器で呑もうと構いはしない、といっているようなものではないのでしょうか。いいお酒を、消毒液の匂いが微妙に漂うファミリー・レストランで呑むわけにはいかないし、パルプ臭のする紙コップで呑むわけにもいかない。そのように当然さけるべきことを知らず知らずのうちにしてしまっているようにも思われるのです。

 このことは、美術館、博物館での美術展などを念頭においていただければより分かりやすいと思います。

 

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福田 和也

ふくだ かずや

1960年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。同大学院修士課程修了。慶應義塾大学環境情報学部教授。93年『日本の家郷』で三島由紀夫賞、96年『甘美な人生』で平林たい子賞、2002『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』で山本七平賞、06年『悪女の美食術』で講談社エッセイ賞を受賞。著書に『昭和天皇』(全七部)、『悪と徳と 岸信介と未完の日本』『大宰相 原敬』『闘う書評』『罰あたりパラダイス』『人でなし稼業』『現代人は救われ得るか』『人間の器量』『死ぬことを学ぶ』『総理の値打ち』『総理の女』等がある。

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  • 2021.03.03