「読書離れ」を嘆くも良し。「読書」の享楽は、この世に二つとない「最も危険な快楽」であり人を狂わせるのだから【福田和也】
“知の怪物”が語る「生きる感性と才覚の磨き方」
■展覧会に長時間長蛇の列に並び、美術鑑賞はできるのか
近年、それは背景として中央、地方をとわない公的機関の財政悪化があるのでしょうが、美術館などもどれぐらいの来館者があったか、つまりは「観客動員」を求められるようになりました。この傾向は、学芸員の権限の相対的な拡大(つまりは地方政治や文化団体の小ボスといった連中の展示内容にたいする発言権が低下する)という肯定的な側面もあるのですが、もっとも決定的な影響は、大衆化という現象でしょう。
大衆化というのは、必ずしも低俗化ということを意味しません。むしろ、その内容とは関わらず、大量の動員を目的としたメディアヘの働きかけ、キャンペーンにより、広くその展覧会にたいする興味を作りだし、普及することに主眼がおかれている。
実際、近頃話題になった展覧会の動員の凄まじさは、大変なものです。
二〇〇〇年、大阪市立美術館で行われたフェルメール展などは、週末には入場まで六時間、七時間の行列は当たり前という盛況ぶりでした。近いところでは、東京国立博物館の横山大観展や国立西洋美術館でのプラダ美術館展なども、平日でも一時間以上の行列を余儀なくされるほどでした。
もともと、近代の美術館制度というのは、大衆を主眼として作られたものです。フランス大革命以降、ルーヴル宮殿で王家のコレクションを開放したことがルーヴル美術館のはじまりだったことに示されているように、王侯貴族が独占していた美術品を、一般市民に公開するということが出発点となっていました。つまりは、より多くの人々が芸術の魅力に触れて、教養を高め、精神を豊かにするべきだという考え方です。
もちろん、こうした考え方は基本的に正しいものですし、誰も否定できないものでしょう。けれども、同時にこの正義のために美術鑑賞のあり方は大きく変わりました。貴族たちの館に飾られていた絵画作品は、とりはずされ、美術館の収納庫にしまわれました。メディチ家とかオルレアン家とか名だたる名流が、画家に依頼をしたり、あるいは買ったり、戦利品として奪ったりという経緯のなかで集められてきた作品は、それぞれの時代や画家の流派などによって学術的に分類をされました。初期の美術館は、ルーヴル宮やフイレンツェのウフィツィのように、もともと宮殿などであった建物を転用したのですが、次第に美術館を目的として建てらた建物が使われるようになりました。そうした美術館は、どのような作品の展示にも適応できるように、無限定な空間とニュートラルな内装を持っています。一言でいえば体育館のような場所になったわけです。
このようにして、芸術品は、一部の人々の独占物から、国民の、あるいは人類の共有財産になりました。その事自体はいいことに違いないのですが、それによって明らかに失われたものもあるのです。かつて、貴族や大ブルジョワが談笑するサロンにかけられていた絵が、啓蒙を目的とした無機質な空間に移された時、あきらかに美術品を観る見方、スタイルが変わったのです。それは、個々の美術作品の質とは別の、より包括的な喪失なのです。
前にも記しましたように、こうした人気を集めた展覧会は、その中身もまたなかなかのものでした。フェルメール展にしても現存作品の過半数を集めた学芸員諸氏の努力は賞賛されてしかるべきものでしょうし、スルバランやベラスケスの傑作を揃えたプラダ美術館にしても、なかなか見ごたえのあるラインナップではありました。
しかしまた、いかに展示されているものが素晴らしくても、長時間の行列の末に、まさにラッシュアワーの地下鉄のような人いきれの中を押し合いへし合いしながら絵の前を通りすぎることを美術鑑賞と呼ぶことには大きな抵抗を感じざるをえません。と云いますか、私にとっては、その反対物でしかない。
一人一人の個人は、それぞれに独自の感性をもっており、虚心に絵の前に立てさえすれば鑑賞行為が成立するのだ、という近代的な美術館からすれば、その周囲がどのような状況におかれていようと、観る者がきちんとした姿勢を自分の内心に保持していれば、ちゃんとその絵の本質を把握することができるのだ、ということになるのでしょう。そういう見方があって、はじめてこうした大混雑展覧会の意義は認めることができるはずです。
しかし、どうなのでしょうか。私からすればこういう状況は人を個人から群れに、塊としての存在に貶おとしめてしまうことにほかならないように思われるのです。つまりそこには美術とたいするという本質的なものはどこにもなくて、ただその展覧会に行く、名画の前を歩くということだけが目的化をした、平たく云ってしまえばある種のイベントになってしまっている。ディズニーランドといったテーマ・パークに行くのと変わらない、その内実からすればもっともっと貧しいイベントにされてしまっている。
美術鑑賞という、一人一人の精神なり教養なりを涵養するはずの営為が、むしろ人をして集団化し、無個性化するという、きわめて逆説的な事態、文化をめぐる悲喜劇がそこでは演じられているのです。美術鑑賞には精神的なものだけが大事だとする態度がむしろ精神を貶めている。
そして、こうした逆説が起こることの背景には、美術を見るということにかかわる作法や身構えといったものが消滅をしてしまった、意識されなくなったことがもっとも本質的な要因ではないでしょうか。
美しいものと対する時には、ある程度の静けさと孤独が必要であるという基本が、より多くの人々がよりよいものと接するべきだという文化国家のスローガンの下で空転してしまっている。
本当の事を云うと、私はフェルメール展も、大観展も見ていません。近代日本画にたいしては抜き難い偏見をもっていますから、大観展にはもともと行く気はありませんでした。フェルメールは、丁度京都に用事があったので、相応の覚悟をして大阪天王寺まで出かけたのですが、午前中にもかかわらず長蛇の列をなしているのを会場の傍で眺め、アルバイトの男の子がハンド・スピーカーで何時間待ちとか何とか怒嗚っているのを聞き、一気に気持ちが萎えるとともに、自分がまったく性に合わないことを試みていることを自覚しました。
私は、タクシーを拾い、中之島の大阪東洋陶磁美術館に行きました。この美術館は、戦後日本最大のコレクションとして高名な安宅コレクションが、その家業である安宅産業が経営の危機に陥り散逸の危機に瀕した時、メイン・バンクの住友銀行(当時)が一括して買い上げて大阪府に寄附したものです。
安宅コレクションは、点数こそたいして多くはありませんが、その質の高さにおいて、ロンドンのデヴィッド・コレクション、台湾の故宮博物館と並ぶ三大コレクションの一つとして高く評価されています。特に宋の磁器と高麗青磁については、その質において他の追随を許しません。
嘆かわしいことに、近年ここでも企画展をよく催すようになりましたが、常設展の時には、だいたいいつも空いています。自然光をうまく用いた、ほとんど人のいない展示室を回って、一息つくと黒門町の福喜鮨に行きました。まさに絶品としかいい様のない明石蛸をつまみながら、ネーデルランドの鬼才の作品の前で押しくら饅頭をするのではなく、一人でゆったりと北宋汝官窯の奇跡的な磁器の切れ味と対面することを選んだ自分に満足をしていました。人はそれを自己満足と呼ぶのかもしれませんが。
長々と美術館の話を書いてしまいましたが、私が云いたいのは、ごく当たり前のことです。美術鑑賞と同様に読書にも、それなりに必要なものがあるということです。読書もまた機会と場所を選ぶものですし、それを愉しむためには、ある程度の道具立てが必要です。本を読むことに関しても、美術館を雑踏にしているのと同様の混乱と倒錯がはびこっています。その倒錯は、前に記したように、あまりにも読書といった精神的な体験を抽象的なものに、つまりは精神だけにかかわるものとしてとらえてしまった結果です。
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◎中瀬ゆかり氏 (新潮社出版部部長)
「刃物のような批評眼、圧死するほどの知の埋蔵量。
彼の登場は文壇的“事件"であり、圧倒的“天才"かつ“天災"であった。
これほどの『知の怪物』に伴走できたことは編集者人生の誉れである。」